MOJO JUN.2007 

interview by IAN HARRISON / translated by MAKIO (オフィシャルpdfファイル

”アメリカンチャートのNO.1なんて獲った事なかったんだよ”。静かな満足をたたえてジョニー・マーは云う。”サプライズというものは、まだそこの角を曲がってやってくるんだね。次に何が起こるかなんて誰にも解らないよ!”。私たちはマンチェスターはアードウィックにある漂白されたようなフォト・スタジオに座っている。マーは黒革の回転椅子に、モデストマウスの"We were dead before the ship even sank"がビルボードNO.1を獲得したという事実、その確信を背後に滲ませて座っている。バンドのフロントマン、アイザック・ブロックが彼を捜し出し、バンドへの貢献を願い出た後、マーは曲を書きギターを弾いた。”僕たちは今のUSにピッタリはまったんだと思う”。とマーは仮定する。”タイミングが良かったんだね”。

ギャラガー兄弟やショーン・ライダーなどよりもソフトなマンカニアン・アクセント(マンチェスター訛り)で、鋭い思考を持ったかなりの話し手であるマー43歳は、スマートで、整えたロン・ウッドヘア、優秀な歯科医師然として、首には矢印のペンダント・・・1983年あたりのスリム・レイバン・ビーズ・ビートニク世代から大して変化はない。お気付きだろうか、彼の手は奇妙なほどに小さく繊細で、その指はまるで骨が無い触手であるかのように特異である。今日のニューズによると、並はずれて高い頂きを登りつめてしまったマーには、最早他のバンドの話をする事による励ましは必要ないようだ。なぜそうなったのか・・・。

ザ・スミスは80年代に於いて全てとは云わないが、かなり重要なグループだった。彼らが83年から87年の間に作った4枚のアルバム、騒々しいライブ、アンチ80年代の視覚的美学、年4枚リリースの素晴らしいシングル、共にあったユニークな彼らのファンとの繋がり。結果として、モリシー/マーのソングライティング・チームはまるで夢を現実にし、喪失と疎外の解散劇は陶酔的ですらあった。急激な上昇と下降、次第に消えゆく衝撃の後の20年間。モリシーとマーは互いの影から逃れる事がいかに困難であるかという事を知った。モリシーに話が及ぶと、普段から寛大なマーも腕組みしてしばし沈黙してしまう。”これまでを見渡してご覧よ”。と、マーが云いだした。”何人がこのネタで反応するんだい?”。去年、3人のアメリカ人が10ミリオンダラーズ(約5億円)でスミスのリユニオンを求めたことは、いまだにいかに彼らの伝説が大きいか、そして人々がいかにモリシー/マーへの幻想を断ち切れずにいるかを示した。

スミスの後も、マーは多産なまでに音楽を作り続けた。長々しいその履歴の一部は、ザ・ザ、プリテンダーズ、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーとのエレクトロニックなど。2000年に自ら結成したヒーラーズは2003年にたった一枚の未完成アルバム”Boomslang"をリリースしたのみであり、その後は(アイザック・)ブロックの招待を受ける事となった。マーがこの新展開を楽しんでいる事は明白だが、問題は、これまでの豊富なキャリアの全てがあっけなく尻切れトンボで終わってしまったという事実である。使い込まれた彼のiPodのフォワードボタンを押せば、至極ジョニー・マーな哲学に出くわす事だろう。曰く;時に縮小は重要である。忘却する為にそれらは潤沢に存在する”。

モデストマウスこそ自分の入るべきバンドだと実感したのはいつですか?

3−4日彼らとプレイしてからだね。午後2時か3時くらいに”We've Got Everything"という曲を演奏していて、”あれっ?!・・・一体なんなの?これは。滅茶苦茶気持ちがいいぜ!そうか、みんなもそうなのか?!”てな事を考えている自分に気付いてね。アイザックが僕にバンドに入ってくれって云ってきた時、僕は知らない5人に混じるんだなと思っていたけど、その彼らの音楽に興味を引かれてしまい、たとえ人生を変えるまでは行かずとも、これはかなり有用な経験になりそうだぞと思ったんだ。誰も僕を部屋の隅に追いやって座らせ、サインだのなんだのとねだるやつは居なかった。正直云うと、”レコードは作れず、僕はまた突然他のバンドへと去っていく”みたいなシナリオは考えないようにしていたんだ。

USツアー中のあなたとモデストマウスですが、サウスダコタのショウではアイザック・ブロックの自傷行為があったようですがこれは?

彼がふざけてるのは観たけど・・・どうもパニクッちゃったみたいだね。なにせ、Iggyヴァイブで溢れてたからさ!僕自身はアイザックが自分で自分をナイフで切った所は観ていなかったんだけど、その後彼にちょっと注意したよ。たまに彼は暴れん坊な子供じみてやりすぎてしまうんでね。実際ずっとステージダイブやクラウドサーフィンやらに熱中してる時もある。あるショウでは3000人のキッズに埋もれて、キモチワルイ牛小屋のような所でプレイしたっけ。そりゃ最高だったよ!キッズはステージに飛んできて、僕らはブルータルなロックを演り返す・・・こんな事が以前にもあったなって思ったよ。こんな素晴らしい、ヘヴィでダークなロックンロールを演奏する、パワー全開のバンドに居るっていうのはこういう事なんだなって。

(モデストマウスの)彼らはスミスには夢中でしたか?

これまでは、それほどポップグループに興味がないようだったね。以前のギタリストだったダン・ガルッチがしばしば僕の名を引き合いに出していたらしいから、アイザックとしてはダンに多大な影響を与えたジョニーとやらをリストの筆頭にあげておこうと思ったんじゃないかな?彼らの興味をより引いたのは、僕がトーキング・ヘッズの”Naked”でプレイしていたって事だったな。これも事実なんだけど、一度僕が14−5歳の時に父親に連れられて行った雨のそぼ降るリバプールで、ガス管に横たわったのをアイザックが発見したんだって!これって82年−87年関連の事よりもずっと興味深いよね。

思い出される幼少時代の事って何ですか?

その頃は幸せな家族生活だったねえ・・・ここから500メートル、シティ・センターまで。見えるだろう?あの上の方の見栄えの悪い建物・・・だけどそれは奇異で強烈に見えたものだったよ。僕の家族がまさにそういう強烈な家族だった。僕の父と母はアイルランドからやってきた人達で、移民っていうのは貧乏子だくさんなんだけど、大抵は家でパーティばかりしていたね。沢山の飲み物と沢山の音楽と、沢山のカソリシズム・・・思い出すに、まさしく中世という感じかな。

家で音楽は重要でしたか?

とてもね。”カレンシー24/7”(外貨トレード用プログラム)くらい!僕の父はハーモニカやアコーディオンを演奏し、おばさんたちは歌い、クリスティおじさんはギターを弾いた。でかいもみあげにビートル・ブーツのイカした若い兄さんで、マジでグラマラスだったな!父と母も若くてアメリカンなもの全てに取り憑かれてたよ・・・エバリー・ブラザーズやデル・シャノンなんかにね。ホリーズも同じようにうちでは大きなノイズだった。僕の母は随分長いこと”自分チャート”をつくって日曜のラジオチャートと比べたりしていたよ。他の両親がビリヤードなんかやりに行く間にね。しかもかなり正確だったんだ。まず思い出すのは、ある午後・・・僕が7歳の時、母とおばさんたちが歌うレコードの前に立ってエバリー・ブラザースのウォーク・ライト・バックを15回もかけたんだ!僕はこの曲を覚えてグルーヴした。完璧にぶっ飛んだね!

ギターに目覚めたのはいつですか?

4−5歳くらいの時にはオモチャにしていたよ。11歳の時にはチューニングやコードを覚えた。ライフ・イズ・ア・ガスとかマギー・メイから始めた。その前にギターにペイントしたりボトルキャップをつけてみたり、テレビの前に立って誰彼構わず真似したり。それがトップ・オブ・ザ・ポップスだろうとサタデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアムであろうと、どれかのバンドがエレクトリックでありさえすれば良かったんだよね。こんな話があるんだけど、土曜の朝、母とデパートに行く時は楽器屋さんに放置されてね。母は自分の買い物を済ませ、僕はギターやアンプだらけのその場に釘付けになったものだよ。

あなたは音楽を通して世界を見渡したりしますか?

そうするべきだね。何故なら、世界ってのは僕自身に無関心で、誰もが全てが酷く鈍感で、望みもなく腑抜けて行ったとしても殆ど関係ないって事が解ったからね。僕が聴くポップ・カルチャー・・・その音楽は僕自身の世界、僕自身の洞穴へ這い登ってきて、僕はそんな余生を過ごせるならそれで充分幸せだった。11歳の時にミュージシャンになろうと決心したんだけど・・・勿論職業としてね。でも11歳なんて社会的地位やらの何のコンセプトもなくそれが可能か手の届くものなのかすら考えていないからね。幸運な事に、僕は外側の世界と契約を結ぶ事が出来たんだけど。

1982年にあなたはグループ結成を画策します。シンガーとしてモリシーを捜し、ストレトフォードの384キングズ・ストリートのドアをノックしましたが、最初の印象は良いものでしたか?

僕たちは間違いなく互いに魅了されていたね。恍惚とさせるような・・・。彼自身が用意していたであろう彼の生活と、僕自身が準備していた人生がそれぞれ目の前にいるやつのせいで全部ナシになっちゃったわけだから。僕たちはこれからどうなってしまうのか、僕たちのアイディアによって一体どうなって行くのか、本当に興奮していたよ。今振り返ってみても僕は偶然の闖入者であったにも関わらず、ふたつの才能は親密なまでに組み合ってしまったんだよ。でね、云ったと思うけど、僕はモリシーと僕自身の歌をイメージ出来るのは僕ひとりじゃないと考えているんだよ。それって勿論既に述べた関係性もそうだし、新しい関係性から生まれ出るものもある。でもグループとそのファンの間に於いても生まれるものだと思うよ。

そして、あなたは休暇に入った・・・スミスの黄金期はいつだったのですか?

真の頂点はディス・チャーミング・マン(83年11月)からゼア・イズ・ア・ライト・・・それとビッグ・マウス(86年5月)かな?僕がラストアルバムを殊の外愛しているって事がよく記事には出ているけどね。成功への驚くべきその躍進の話は、みんなが知らないような素晴らしき時代の話でもある。大興奮するような事ばかり起きたよ・・・新しいジャケ、新しいレコード、壁に貼られた僕たちのポスター、ファンも出来た!僕らが他バンドのファンであるのと同じように、彼らが僕らのファンだなんてね!今書いたリフが二週間後にはシングルになって、ニュー・カッスルのキッズを夢中にさせるんだと知っていた。こういったファンとの関係はお互いに有益でエキサイティングだったね。僕らが投入する素晴らしいモノは、かつて僕自身を魅了した7インチシングルであって、それは僕らのファンにもまた作用したんだ。神秘的なオブジェクトとして、今でもね。古臭いのかも知れないけど、僕なんか7インチシングルってのは実体的絶大なパワーを持ち、或いは異世界のモノなんじゃないかと思うくらいさ。その魅力たるや、物理的次元を超えているんだよ。

ゼア・イズ・ア・ライトはスミス解散後に出たシングルですが、このクオリティって一体・・・

この曲は丁度今の僕と君のような感じで、僕はテーブルの上に座り、モリシーは離れたところの椅子に座って書いたんだ。僕は膨大な素材の中から2つほどピックアップして持っていたんだけど、僕たちがした事ってこうやって(テープをオンにする仕草)それらを一緒にするような・・・テープレコーダから引き抜いたり・・・チャンネルを合わせたりとか・・・それが僕らが一緒におこなった4分間体験なわけで・・・わかるかな??まあそこに情熱や激情があったのかどうかが君の気になるところなんだろうけど・・・・それもあったんだよ。かなりパワーみなぎる、美しい瞬間でもあった。

それがいつも?

僕たちは何度も何度も繰り返したからね。セメタリー・ゲイツなんかは−−書いた時はこれが新曲になるなんてまるきり考えていなかったな。モリシーがキッチンへ来て”これだよ!これは凄くいい曲だよ!”なんて云い出すまではね。こういった事は結構あったよ。僕はそんな瞬間の事を考えたり、人々がスミスがそれぞれにとってどんなに素晴らしい音楽だったかを、僕に話してくれたり賞賛してくれたりするのが好きなんだ。どれだけスミスの音楽が貶されても構わないけど、云わなきゃならないのは僕がスミスを守らなきゃいけないって事で、死ぬまでずっと必死に守っていくつもりだよ。何故って、このレコードの音は僕の感情の全てなんだから。ひとつのアイディアなんかじゃなくて、自然に降りて来たものだから・・・一日中だってプレイ出来たよ。今でさえ、僕たちはグレイトだったと云える。

ギター・サウンドはバンドの50パーセントを担っていましたね。どうやってそこに到達したのでしょう。

僕たちの典型的なサウンドとして、みんなはこう、広陵としてメロディックで変幻自在っぽいものをイメージすると思うし、僕もそれを期待していた。イカしたでかいモザイクを全てに入れ込もうとしていたよ。ベースやドラムにさえもね。他のミュージシャンとやる時は出来るだけカラフルに、暗めの色を散らしてみたり、突然トップは明るめにしたりとかね。

それはカラフルですね!あなたは色彩的な観点で音を見ることが出来るんですか?

目で見ることは出来ないけどね、心の中ではバッチリ見えているんだよ。スミスはブルー、ブラック、シルバー、ホワイト・・・え〜と、パープル、ブラック、ネイビーブルー、グレー、それと・・・レッドだな。僕はネイビーブルー、ダークグリーン、そしてブラックにゴールドかな。ニュー・オーダーはシルバーとブルー。オアシスはレッドとブラウンだね。僕は至って真面目だよ!(ボブ・)ディランはオーガニックなサンディ・ウッドカラーだ。さっきの話じゃないけど、良い例がブライアン・ウィルソンだな。そのレコードを聴くとその音は円形のステンドグラス窓みたいで、それぞれの面は万華鏡のようになっていて詞もその一部なんだ。こんな風に、僕のレコードの聴き方も円形ステンドグラス窓的なんだよ。

あなたがバンドを去ったのは87年8月と云われていますが、モリシーがシラ・ブラックのカバーを強いることさえ無ければ戻って来ましたか?

僕が休暇を取らず、シラ・ブラックのカバーをやらず、マネージャーを雇い入れていたら、あんな事(解散)は起こらなかったろうね。何故23歳のギタープレイヤーが当初から何百や何千もレコードを売るようなバンドの管理をもしなけりゃいけなかったのか、もし誰かが説明してくれるんなら熱心に聞くんだけどね。バンドの最後の数週間は恐ろしいまでに苦痛でしかなかったよ・・・友情も破壊しかねないような不信、疑惑、不実と悪態・・・。何故マネージャーを入れなかったかって?入れた事もあるけど、彼らはいくつかの理由で好もしくない人物になって行った。それはまあいい。認めるよ。マネージャーを雇うことが出来なかったってのは認める。そんなわけで、僕らはマネージャー無しの状態で続ける事が出来なくなった。

あなたとモリシーの間には愛があったと互いに云っていますね。それはもう終わったんですか?

うん、その後は急速にね(笑)。でも尊敬の気持ちはずっと残るよ。

どうしたらふたり一緒に留まることが出来たのかと考えた事はありますか?

(ちょっと気むずかしげに)思うに、僕たちは何枚かのアルバムをつくるとする。OK?それは他のレコードよりも全く良くなかった。また僕たちは良いものをつくり、次に胡散臭いようなやつをつくり、一方では凄いものを作る・・・僕たちも他のバンドと同じように、永遠に留まり続けるってわけ。同じ種類の軌道ではないし、二重三重になった同じ物語ではないにしろ、僕が終わりにすると決めた以上、スミスにはもうクズみたいな酷いレコードを作るようなチャンスは無いんだ。どれほど人々が僕たちを愛してくれていてもね。その時代が終わりを告げて、スミスに助けられたような人々の、新しいセンスや可能性がどっと流れ込んで来て、もう近寄ることも出来ないのさ・・・これは疑いようもないよ。

ブライアン・フェリーやトーキング・ヘッズ、プリテンダーズなどにはゲストとして参加しましたが、独特の激しさを持つフロントマンが居るザ・ザには長く在籍していましたね。

そうね・・・僕はひとりが経営しているようなところの誰かのパートナーとしてフル・タイム働くつもりは毛頭無かったんだけど、なにせマット・ジョンソンは凄い男だからね・・・。激烈且つ生き生きとしてる。ダスク(1993年リリース)は僕がすぐにあげられるベストレコードだよ。とても普遍的なアルバムだと思うからね。これを作っている間、ギター・プレイヤーとしての僕の仕事は、腹心としてかっこいいリフを散りばめ、彼をギター・プレイヤーとしてどうやって助けて行くか、ギター・プレイヤーとしてバンドとフロントマンとともに何をすべきかだった・・・うまく行かなかったけど。

あなたとバーナード・サムナーは同時期にエレクトロニックを結成しましたね。そのレコードはとりわけ歳を取らないと云われていますが。

ファーストアルバムについては心底好きなものもあるし、ゲット・ザ・メッセージは崇高なものだと思う。だけど僕たちは時代に合ったものを作りたいと思っていたんだよ。ポップ・ミュージックって時代を反映するものだろう?個人的には自主制作などのインディー、世界的成功を収めたノーザンバンドの事などをよく知る幾人かの理解者を得ていたんだけど、特に動かされるものが無かったようでだめになった。エレクトロニックでは、チャートでスミスが獲れなかった高順位を獲得出来た事は嬉しかったな。いい時間を過ごしたよ。

1996年にエレクトロニックのセカンドアルバム、”レイズ・ザ・プレッシャー”がリリースされ、また、裁判所ではスミスの面々が集まりましたね。マイク・ジョイスがバンド収入の25パーセントを求めて、あなたとモリシーを告訴した・・・

これって、可哀想なバンド・メンバーが二匹の恐ろしいオーグ(食人鬼)に搾取されているってことでしょ?全く酷い冗談だよ。無理矢理そこに10分間立たされて・・・心の中で、ビートルズのメンバーになるってこういう感じなんだろうなと思ったよ。もし君が若く、ロック・グループとして君が全てを得られる契約を結んだとしても、”裁判”もまた、君が得るもうひとつのものなんだからね。

2006年のマンチェスターvsキャンサーで、あなたはヒーラーズバージョンの”ハウ・スーン・イズ・ナウ”をアンディ・ロークと演奏しましたがマイク・ジョイスは居ませんでしたね。

彼は僕に逆オファーの手紙を書いてきたけど、僕には彼を招こうという意志は無かった。今まで僕なんか完全スルーだったやつをなんで呼ばなきゃ行けないの?アンディと”ハウ・スーン〜”をプレイ出来たことはかなり有意義だったけど。

2000年からのヒーラーズを、あなたは”素晴らしき闘争”であると話していました。何がうまく行かなかったんですか?

僕はこのバンドに高望みをしていたんだね。演ったショウは最高だったし、みんな僕たちを本当に好いてくれたと思う。でも僕は、人々は僕のやってる事になんかまるで興味無いんだなって学んだんだよ。それを知ることが出来たのは、まあ良かったよね。グレイトなアイディアだったんだけどね・・・みんなに、僕の音楽や当時の僕のちっぽけな強迫観念だとかを教えて込もうなんて、そんなのは僕の仕事じゃあないんだなって学んだんだよ。

去年あなたは1000万ドル(5億円)でスミス再結成をオファーされましたよね。

事実だよ。3回のショウでね。僕のマネージャーに交渉した人間は、同じようにモリシーにも交渉していたけど、バンドメンバー間でのそれは全く行われなかったんだ。僕は全然リッチじゃないし、現金に釣られそうになるくらいだったけど、その金はどうも・・・怪しかったんだな。ナゾナゾの一種みたいな・・・ナゾナゾでもないような。

オファーを受けるつもりでしたか?

もしそんな変な雰囲気じゃなかったら受けてたよ!イェー!みんなそれぞれミュージシャンとしても、まだまだ良いショウを見せられるだろうしね。ああ、君とは友だちにならなきゃ。

”例のあの人”とも?

あ〜、やっぱり君と僕は友だちになれないな!沢山の人々がそうして欲しいって思っているようだけど、僕自身はその必要性を感じないんだ。なにせ彼は僕をこっぴどくやっつけ過ぎたからねえ。でも全てにおいて良くして行こうとは思っているよ。みんなと和やかにちゃんとやろうっていう用意はあるんだ。20年間殆どなんの付き合いもないような人たちに愚かしいエネルギーを費やすわけにはいかないよ。

あなたはスミスの旧譜をリマスターしたいと云っていました。未発表の曲が聴けたりしないんでしょうか?

隠された逸品みたいなのは無いけど、黄金期による素晴らしいバージョンは存在するよ。オーバーダブを重ねる前の裸ヴァージョンとかね。その中のいくつかは本当に良いサウンドだったりするんだ。3人で録ってボーカルを入れただけなんだけど、ほんとに、本当〜に素晴らしいんだ!それから膨大なライブ録音もね。僕たちは驚愕的ライブバンドだったから。まだまだ有効だろうしリマスターはしようと思ってる。

何か将来的な展望はありますか?

今僕はモデストマウスとのツアーが本当に楽しくて仕方ないんだ。あと、他のレコードも・・・ヒーラーズでやろうとしている6−7枚のレコードもね。今のヒーラーズ的には、うんと速くてアップビートなギターを直接テープに乗せてるって感じなんだ。僕自身をもっと再確認出来るような・・・例えるならスミスの”アイ・ウォント・ザ・ワン・アイ・キャント・ハブ”っぽい、打ちのめされるようなやつだよ。良いか悪いかなんて議論を呼ぶつもりは全く無いし、僕は自然に出てくるものを完璧にこなすだけなんだ。あと、ちょっと前から本を書き始めているんだ。君たちに記憶されている既存のものはくだらない本ばかりだからね。もっと面白い話を盛り込むつもりだし、きっと楽しんでもらえると思うよ・・・そんなわけで、次回はもっとスミスについて深く語る予定だけど、このインタビューがスミスを語る最後のインタビューさ。それから、僕はプレイ出来なくなるまではずっとプレイしているだろうと思われるよ。

大事件はまた起きるのでしょうか?

間違いなくね!イェー!毎日だよ!それでこそ君もやりがいがあるってものだろう?

(updated Jun.3/2007)


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