MOJO/2001 APRIL   (初出)

By John Harris/Mojo/Planet Syndication

PLAYER/2001 SEPTEMBER  (対訳)

訳:沼崎敦子

ザ・スミスの大躍進は1986年5月、3rdアルバムに先駆けて衝撃的なシングル 「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」を発表した時に始まった。1987年の春までに、彼らは更に4枚のシングルを出し、アメリカに進出し、メジャー・レーベルと契約をかわし、最後の作品となるアルバムの制作を終わらせていた。60年代のビートルズやストーンズに匹敵する猛烈な仕事ぶりを振り返って、ジョニー・マーはこう語る。「”ザ・クイーン・イズ・デッド”を作る前、もの凄い直感が働いたんだ。プレッシャーも凄かったけど。とにかく、自分たちが何か素晴らしいものを出さなくちゃならないって気がしたんだよ。このバンドが素晴らしいことも、そう言われていることもわかってたけど、僕は惰性みたいな作品で逃げたくなかった。それに、僕はこのバンドを自分のヒーローみたいに素晴らしいものにしたかった。スタートしたときから、重要なバンドにしたいと思っていたんだ。スミスは頭の中では僕らなりのローリング・ストーンズだったのさ。だから、ザ・フーとかスモール・フェイセズとかいったブリティッシュ・バンドの英雄たちを思い浮かべて、「さあ、僕たちも今が勝負時だ。なんたって3rdアルバムなんだから」って考えたわけさ(笑)。つまり・・・・ビビッてたんだな。」

コンピレーション的な”ハットフル・オブ・ホロウ”や”ザ・ワールド・ウォント・リッスン”、”ラウダー・ザン・ボムズ”を除いた4枚のアルバムで、ザ・スミスの水準が落ちることは決してなかった。コンサートも同様に圧倒的だった。にも関わらず、楽屋やツアー・バス、ミーティング・ルームにおいては、バンドの状況は危機に次ぐ危機という感じに見えた。もっとも決定的だったのは、1983年に最初のマネージャー、ジョー・モスが去って以来、満足の行く代役が見つからなかったことだ。マネージャー候補者は、危機のたびに取り沙汰されるのだが、突如としてお払い箱にされてしまう。その結果、バンド自身が(ことにジョニー・マーが)日常的な業務をこなさなくてはならなかった。傑作を作り出すかたわら、ヴァンのレンタルについて話し合わなくてはならないギタリスト/ソングライターはそういないはずだ。ラフ・トレード・レーベルへの不満、ベーシストのアンディ・ロークとドラマーのマイク・ジョイスが他の二人より軽んじられていることに段々気づき始めたという事実、ロークのヘロイン問題、モリッシーの人付き合いを嫌う傾向などが重なって、ブループが繰り返し敵対的な雰囲気に陥るのはもう当然のことだった。しかしまた、”ザ・クイーン・イズ・デッド”の驚くべき音楽は安穏とした状況に満足している人たちからは生まれ得ないものだった。

「バンドには最初から奇妙なヴァイブが取り巻いていて、それが僕たちの原動力だった。」とマーは言う。「ひとりひとりのメンバーの間におかしなダイナミズムがたくさん働いていてね。凄く不安定なメンバーも居て、いつも権力闘争が起こってた・・・・・凄く激しいヤツがね。それがとても激しい音楽を生んでいたんだ。あんな風じゃなかったら、あんな音にはなっていなかったよ。」

1985年のある金曜日の午後、チェシアの自宅でジョニー・マーは”セメタリー・ゲイツ”、”アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー”、”フランクリー、ミスターシャンクリー”の音楽を書き、作詞担当のモリッシーに渡すためのカセットを用意した。”ザ・クイーン・イズ・デッド”が形になったのは1985年の秋から冬にかけての事だった。制作がスタートしたのはドローンのチョールトン-ハーディ区にある16トラックの冴えないスタジオで、曲が出来たてホヤホヤのうちにバンドが集まりやすいというだけの理由で選ばれた。そこで彼らは”ザ・ボーイ・ウィズ・ザ・ソーン・ヒズ・サイド”(心に茨を持つ少年)の大部分を作り上げ、1985年9月に単発シングルとしてリリースしていた。いったんグループがスタジオに入ると、ペースは上がっていく傾向にあった。マーは、グループの技量に自信を持っていたので、バンドをぐいぐい引っ張っていった(「テクニックがしっかりしていたら、一曲のリハーサルに2週間もかける必要はないんだ。」)。一方モリッシーは全員揃ってのリハーサルを一蹴、その結果スタジオのスピーカーから大音量で出てくる音を聴いて初めて、バンドが彼の書いた歌詞を知ることになった。

「僕たちはリズム・セクション全部とほとんどのギターを、モリッシーはどんな歌をつけるんだろうと思いながらレコーディングしてた。」と、アンディ・ロークは言う。「それは実際エキサイティングなプロセスだったけどね。僕たち三人とも「彼は何を歌うんだろうな」なんて感じだったよ。時々彼が何をやるつもりかジョニーに手がかりを与えることもあったけど、それだけだったからね。多くの歌で、僕たちは大笑いしながら床の上を転げ回ることになったよ。モリッシーならでは、さ。聞いて大笑いするか、ほとんど泣きそうになるかのどっちか。どの曲も悲劇的か、笑いを誘うか。あるいはその両方か、だったね。」

「モリッシーが音楽の最初のレコーディングが行なわれている間、そこにいることもあった。」と、ロークは続ける。「それが気に入ると、彼はそこに座ってニコニコしながらうなずいているんだ。気に入らないと、部屋を出て行ったっきり戻って来ない。僕かマイクのやっている事が本当に気に入らない時は、ジョニーを部屋の外に引っ張り出して、戻ってきたジョニーが僕たちに話をしなきゃならなかった。コミュニケーションの不足は問題だったかって?勿論だよ。まるでクイズみたいだった。”モリッシーをいかにハッピーにさせておくか”っていう。」ドローンでのレコーディングの後、スコットランド・ツアーに出発した。その後、彼らはロンドンのRAKに場所を移して”ビッグマウス・ストライクス・アゲイン”と”ゼア・イズ・ア・ライト・ザット・ネヴァー・ゴーズ・アウト”、”アスリープ”をレコーディングした。それから彼らは再びスタジオを変え、サリー州ファーナムに近いジャコブスで6週間を費やし、”ザ・クイーン・イズ・デッド”の大部分をテープに収めた。彼らが泊りがけで作業を行なったのはこれが初めてだった。マーはスタジオの敷地内のコテージに泊まり、深夜に翌日のプランを練った。さらに、”ヴィカー・イン・ア・チュチュ”と”ネヴァー・ハッド・ノーワン・エヴァー”の音楽を新たに書いた。プロデュースは前作”ミート・イズ・マーダー”でエンジニアを務めたスティーヴン・ストリートだった。彼の役割は極めて過酷なもので、メンバーごとにガラリと異なるスケジュールをなんとかして調整しなくてはならなかった。モリッシーは早起きして、昼までにボーカル・トラックの仕事にかかりたがった(インサイダーによると、彼はよく10時のニュースの前に丘を登ってくることで知られていた)。一方マー、ローク、ジョイスはもっと夜行性のロックンローラーだった。しかし、イギリス家庭の常として夕食に一家全員が集まるように、スミスのルール・ブックでも全員がディナーの席に着くよう義務づけられていた。ありがたいことに、こうしたバンドの内輪のゴタゴタは音楽には何の関係も無かった。タイトル・トラックは偉大なるロックの原型、MC5とヴェルヴェット・アンダーグラウンドをひとつにまとめてみたいというマーの願望から生まれた。

「”ザ・クイーン・イズ・デッド”という曲は、長い間頭にあったんだ。その歌がこういうタイトルで、アルバムがそう呼ばれることになるのはわかってた。僕にとっては、MC5がヴェルヴェット・アンダーグラウンドの”アイ・キャント・スタンド・イット”をプレイしてるって感じの曲。僕はいつもMC5にはガッカリさせられていたんだ。もっと若いとき、みんなが「ドールズとMC5とストゥージズは凄い”みたいに言うからMC5を聞いてみたけど、僕には熱血過ぎるっていうか、ホルモンぎんぎんみたいに思えてね。だからMC5がこんなだったらというもの、エネルギーやクールさを強調したものを作り出したいと思ったのさ。」

マーのリズム・ギターにルー・リードを思い浮かべる人もいるだろう。「コントロール・ルームとリビング・ルームの間にある凄く小さなブースでやった。アンプをフィードバックさせたかったんだ。かがみこんで一心不乱にギターを弾いていて、ふと顔をあげたら、バンドが拍手喝采してね。「今ので良かったかな?別のをやってみようか?」って聞いたら全員が「ノォォォー!!」ってさ。」しかし、カットされてしまった部分もある。「”ザ・クイーン・イズ・デッド”はあと2分長かったんだ。」と、スティーヴン・ストリートはいう。「アルバムに入っているもので約6分あるんだけど、実は8分のを用意してたんだ。僕がちょっと長すぎると言うと、彼らは「いいんだ!このままで行くよ!」って。でも結局カットした。今でもどこかに長いバージョンがあるはずだよ。」

モリッシーの歌詞は例によって度肝を抜くようなものだった。ことに皇室を痛烈に批判した”ザ・クイーン・イズ・デッド”について、「驚異的だよ」とジョニー・マーは言う。「まさに驚異的。歌詞の面でお気に入りのスミス・ソングなんだ。」また、”フランクリー、ミスター・シャンクリー”はラフ・トレードのジェフ・トラヴィスに対する手厳しい当てつけになっていた。「聴いてすぐにピンと来た。ジェフはこれに怒り狂ったって聞いているよ。」とロークは言う。実際にジェフ・トラヴィスは「ちょっとイライラしたけど、笑いもした。混ざり合っていたね。ちょっと悲しくもあったし。モリッシーって男を僕ほど知らなければ、ほんとに腹を立てていたと思う。彼に関しては何もかもがいろんなレベルで起こるんだ。単純明快なところはひとつも無い。そこが彼との関係の面白いところでもあるわけで。」

レコーディング中にもモリッシーとマーにはWEAやヴァージン、EMIなどメジャー・レーベルからの誘いが相次いでいた。彼らがEMIとの契約を決めたという情報が漏れ伝わると、ラフ・トレードはインディーの無干渉主義を捨て、バンドが他のレーベルから新作を発表するのを防ごうとした。その結果、”ザ・クイーン・イズ・デッド”は宙に浮いてしまい、1986年の6月までに発表されることが無かった。「あのアルバムで一番印象に残ってるのは」とマーは言う。「午前12時半頃にミキシング・デスクに座ってた時の事だよ。僕達は凄くハイになって興奮していて、このヴァースはどうだろうとか、このコーラスはとか騒いでた。それと同時にラフ・トレードとのゴタゴタが進行していたわけさ。モリッシーはある弁護士にこの件について相談していた。鼻持ちならないヤツで、僕達は凄く嫌っていたんだけど、そいつが電話してきて「この件に取り組んでいるところなんだが、アルバムは差し止めになるかも知れない」って言うんだ。こっちはご機嫌になってるところだってのに、こんなろくでなしがラフ・トレードが新作を差し押さえるつもりだと言う。だから、「豪勢じゃないか、やってくれよ」と答えてやったよ。すると45分くらいしてラフ・トレードのジェイってヤツが電話してきて、僕達のローディが借りていたヴァンを返すのが2日遅れて、ヴァン会社がラフ・トレードに来たから訴訟を考えているって言うのさ。「ジェイ、引っ込んでろよ」と僕は言って、また音楽を聴いていい気分になりに戻っていった。ほんとにあの時は我ながら「こんなのイカレてる」って思ったよ。」

完成したもののラフ・トレードが発売を差し押さえるべくスタジオ代を出さなかった為アルバムはスタジオに留め置かれていた。マーはギター・テクのフィル・パウエルと共にテープを盗み出すことを企てさえした。「60センチも雪が積もっているのに、金曜の夜に家の周りをグルグル回りながら話し合ったんだ。僕たちがあのテープを所有しているべきだってね。で、冒険家気取りで車に乗ってスタジオに出かけたんだ。到着してキッチンのドアのところから入り込もうとしていたら、オーナーの一人が出てきて「やあ、ジョニー」って言うんだ。自分がどんなにバカやってるのかに気づいて「アルバムを取りに来たんだよ」(笑)。朝の5時半にだよ。そしたら彼は「僕たちは何の権利も無いんだ。渡してあげることはできそうもないよ」ってさ。「これはアンディ・ロークがヘロイン問題を抱えていた時期だとされている」とスティーブン・ストリートは言う。「それで支障があったはずだと思うんだけどアンディは素晴らしかった。そんな問題があったなんて気づかなかったよ」しかし、ロークの問題は充分に現実的だった。10代後半からヘロインをやっていた彼は、そのまま中毒になっていった。彼のドラッグ使用のせいでスミス前にマーとの仲が決裂し、マーはモリッシーとコンビを組むようになる。マーとロークがヨリを戻してからも、この問題はグループの発展に常に落ち着かない影を投げかけていた。この時期、ロークは完全に病的状態に陥っていたのだ。マーはまず彼をツアーに引っ張り出そうとした。二人は1986年1月に行なわれた労働党を応援する”レッド・ウェッジ・ツアー”に参加し、マーの友人であるビリー・ブラッグと一緒に3曲を演奏した。しかし、マーにはエゴのぶつかり合いばかりが目に付き、決して居心地のいいツアーとは言えなかった。そんなツアーに、ある日ザ・スミスが参加することになる。「ビリー(・ブラッグ)にこっそり、ニュー・キャッスル公演にスミスを連れて来てプレイさせてもいいかなって訊いたんだ。その日僕たちは機材も持たずに車に乗り込んで現地に行って、サウンドチェックもやらずに、いきなりコンサートの真中に登場し、借りた機材で皆をぶっ飛ばしてやった。4曲やったかな。あのツアーには政治的なものとは何の関係も無いエゴのぶつかり合いが絡んでいて、イヤな感じだったんだ。皆僕に意地悪だったしね。だから自分のバンドを連れて戻っていって、連中をぶっ飛ばしてやったのさ。やったねって思ったし、自分の仲間が誇らしかったよ。歌も新しかったし。”ビッグ・マウス”を皆に向かってプレイするのは最高だった」

1986年2月8日、ザ・スミスはリヴァプール・ロイヤル・コートでコンサートを行ない、その後アイルランド・ツアーに乗り出した。モリッシーとマーがロークの抱える問題が活動の邪魔だと確信するようになったのはこの頃だった。「ツアーに出ても」とロークは言う。「ちゃんとやれなかったんだ。だからよく医者に行っては睡眠薬やバリウムをしこたま貰っては飲みすぎて、大抵そのせいでおかしくなっていた。何もかもがちょっとスローモーションになってるって感じで」 しかしアイルランドのツアーが散々な結果に終わったのは自分のせいではないという。「確かにちょっとおかしくはなっていたけど、僕のローディが世界最悪だったっていうのも原因だったんだ。ステージで僕とジョニーはF#とEの2つのチューニングを使っていたんだけど、こいつがしょっちゅう違うチューニングのベースを渡すんだよ。”ゼア・イズ・ア・ライト”だ、F#を渡せ、っていうのにEのベースをだすんだもん、調子っぱずれにならざるを得なかったのさ」 しかしマーはきっぱりと親友に責任があると考えていた。「一線を超えてしまうときがあるんだ。「こんなことで?」って彼が思うのも理解できるけど、他の状況で他の人間だったら2年と続かなかったはずだ。道徳的立場ってものがあるはずなんだけど、僕たちにはそういうのが無かった。バンドの周囲に居る2,3人から「君達、よくないよ」と言われていたからコトは重大だった。アンディは干渉外だった。彼とコミュニケートすることが不可能だったんだから」

バンドがイギリスに戻ると、ロークは極めて冷淡なやり方でクビにされた。「モリッシーは僕の車のフロント・ガラスに小さなハガキを残していったのさ。まるで交通違反の切符みたいに。それには「アンディ、君はザ・スミスを出て行ってしまったんだね。さようなら、元気で。モリッシー」と書いてあった。ひととおり泣いたあと、ジョニーに電話して「どうなってるんだ?」って訊いたよ。彼は「ああ・・・・・・こっち来ないか?」って。ジョニーはほんとに優しかった。ずっと僕を支援して助けになってくれた。だけど彼も裁判官の決定には従うしかなかったんだ。あれは僕の人生で最悪の時だった。もうおしまいだと思って」 「彼は僕の家を出るとベースを持って車に乗った。僕の人生で一番悲しい日だったよ」とジョニー・マーは言う。「泣いてしまったよ。彼の事を思って」 モリッシーの置き手紙にも関わらず、マーはロークの脱退が彼をクリーンな身にするための愛の鞭のような一時的なものだと見ていた。「あれは完全に一時的なものだったんだ」とマーは言う。「アンディは僕たちの仲間だ。「永遠にさよなら」なんて絶対にあるわけないさ。「しっかりしろよ」的なものだったのさ。それが一週間くらい続いてしまったことが良くなかったんだ」

ロークの後釜はクレイグ・ギャノンというマンチェスターのギタリストで、かつてマーとロークがスミス前に在籍していたバンド、フリーク・パーティに参加していたこともあった。彼はベースを弾くことの難しさなどはあまり考えず、バンドとリハーサルもせずに加入してしまった。続いて運の悪いことにアンディ・ロークが逮捕されてしまった。「ディーラーの家に到着したと思ったら、ドアが破られて20人もの私服警官が踏み込んで来た。彼らは半年くらいの間あそこを調べていたに違いないよ。ナイジェリアから始まる物凄いドラッグのリンクがあって、そのディーラーは下っ端の方だったんだ。その前日に髪をブロンドに染めようとして頭がオレンジ色になってたんだ。警官が覗き穴から見て「あの髪を見ろよ!」なんてニヤニヤしてたのを思い出すよ。ボーイ・ジョージが逮捕されて一週間後ぐらいの事だったんで、ありがたい事に彼が見出しを独り占めしてくれた。だけど「10時のニュース」には登場してしまったね(笑)。ヘロインは18歳の時からつかず離れずでずっとそこにあったんだ。かなりのお金が入るようになったんで、やり続けるのも楽になってた。一日で大枚をはたいてしまったこともあるよ。どうして立ち直ったか?最終的に大人になったって事かな、基本的にはね」 「彼のガール・フレンドが夜通し電話してきてさ。「アンディが帰ってこないの。凄く心配だわ」って。僕たちは何かが起こったってことしか解らなかった」とマーは言う。「彼は土曜日の朝に電話してきて、その夜には帰ってきたよ。完全なショック状態だった」

ロークは刑務所に行くものと信じていたが、2年間の執行猶予と罰金で釈放となった。また、ザ・スミスへの復帰も認められることになった。「逮捕のせいで僕たちはまた彼の周りに集結したんだと思う。彼には友達が必要だったんだよ。だから彼は戻って来た。おかげでサウンドを拡張するチャンスも得られたわけだし」 バンドはクレイグ・ギャノンをセカンド・ギタリストとして残すことにした。マーによると、参加して数週間で追い出すのは残酷すぎるという判断からだった。こうしてザ・スミスは5人組となり、ギャノンはステージでロークの左側に立った。5月、ザ・スミスはついに”ビッグ・マウス・ストライクス・アゲイン”を発表した。ラフ・トレードとの再交渉が成功し、翌月、ついにアルバム”ザ・クイーン・イズ・デッド”が晴れて発表されることになった。交渉を成功に導いた当時のマネージャー、マシュー・スタンフは1985年にも一時的にマネージャーの座についたものの解雇され、これが2度目のチャレンジだった。最初の任務はバンドのアメリカ・ツアー10公演を成功裡に終わらせることで、彼は苦難を乗り越えてうまくやってのけたのだが、帰国して3週間後にいきなりクビを言い渡されたという。ツアーの前にはモリッシーが失踪する事件もあって、彼らのマネージメントをするというのがいかに大変なことかスタンフには身に染みてわかっていたが、にもかかわらず”ザ・クイーン・イズ・デッド”差し押さえという不安定な時期に再びスミス軍団に戻ったのだった。「私がマゾだったという言うことも出来るかもしれないね(笑)。だけど、バンドが大好きだったんだ。おそらく彼らは私と仕事をしたい、私たちはきちんとコトに当たるべきだって気づいたんだろう。そして私はラフ・トレードとの状況に興味をそそられていた」 スタンフはバンドの契約を再交渉し、レーベルに対する彼らの義務を減らし、次のアルバムを最後にEMIに移籍出来るようにしてやった。「モリッシーはかなり喜んでいたようだけれど、私をずっとマネージャーにしておくほどじゃなかった。私はそ期間にやった仕事に対して支払いを受け、会計士からクビを言い渡された。弁護士もクビになったんじゃなかったかな。そんなに驚かなかったよ。モリッシーの仕事のパターンがわかり始めていたからね」

こうした仕事の仕組みにおけるマーの役割はモリッシーほどハッキリしていなかった。彼はモリッシーが提案するマネージャー候補に賛成はするものの、結局彼らが放り捨てられるのを見ることになった。その結果、ヴァンのレンタルをしたりする尻拭いがマーのところに回ってくるのだった。「モリッシーは僕を隅っこに引っ張っていって、「この人をマネージャーにしなくちゃならない」って言うんだ」とマーは言う。「だから僕が「君はツアーについて行って、関係を確立しなくちゃならない」とか説明するんだけど、次の瞬間にその人はクビって事になる。そりゃ、その人だって怒るだろうよ。誰が彼にクビだって伝えるんだ?もちろんとんでもない大騒ぎに決まってるさ。だけど、モリッシーには彼なりの理由があって、おそらくそれは正しいんだろう。彼らを雇ったんだからモリッシーが悪いんだとは言わないよ。たまたま彼らがピッタリの人間じゃなかったんだろう。結局色んなことが僕の負担になってきて、僕が彼らを解雇しなきゃならなかった。マシューは立派なマネージャーだったし、バンドを愛しているだけじゃなく、助け出したいとも思っていてくれた。だけど、コトはもっと重大になっていたんだ。」 「モリッシーを甘やかさなかった人たちはあんまり長続きしなかった」とアンディ・ロークは言う。「ジョニーが彼らと仲良くなる傾向があるとモリッシーはヤキモチを焼いて、「そうか、だったらあんなヤツラ好きじゃないね」って考えるわけさ。ちょっと妙だった。それにフラストレーションがたまったね。僕とマイクは(他の二人よりも低い)財政状態を何とかしたいと思っていたんだ。いつもリストの一番下、って感じだったからね。これはなんとかなりそうだと思うと、マネージャーがクビになり、僕たちはまた一番下になっているのさ」モリッシーのヤキモチは事実のようで、たとえば”ストレンジウェイズ、ヒア・ウィー・カム”のレコーディング時にマネージャーを務めたケン・フリードマンもそれがためにクビにされたと言われている。「そうだと思うよ。でも、それはマネージャーだけにとどまらなかったんじゃないかな」 プロデューサーもそうでしたよね。”ザ・スミス”を手がけたジョン・ポーターが外されたのもモリッシーの嫉妬が原因だといわれています。 「それにトロイ・テイト(初期のセッションに関わった)もね。それが僕にも解ってくると、気になりだしちゃってね。仲良くならないようにしようとしてたよ。」 キッパリ対決してやろうと思いましたか。 「だからバンドを脱退したんだ」

実際マーがザ・スミスを出て行くまでにはまだ12ヶ月あった。まだ”ザ・クイーン・イズ・デッド”が出たばかりの7月、彼らはパニックをリリースする。Tレックスの”メタル・グルー”を思わせるようなグラムっぽいこのシングルは、80年代のメイン・ストリーム音楽の凡庸さと極めてイギリス的な社会の有様を激しく批判する内容を持っていた。伝説によると、モリッシーとマーは、チェルノブイリの原子炉事故のニュースに続いてワム(80年代のアイドル・ポップ・デュオ)の”アイム・ユア・マン”がかかるというラジオ1のシュールな番組構成を聞いてこの曲を思いついたという事になっている。マーによると、ワムのジョージとアンドリューに対する苛立ちが歌詞(「DJを吊るせ/ヤツラがかけている音楽は僕の生活に何の意味も持たない」)に影響している面はあるかも知れないが、その話はいささか誇張されすぎている、とのことだ。「モリッシーと一緒にキッチンにいたとき、ワムがラジオでかかって、ボロクソにけなしたのを覚えているよ。それから一週間もしないうちにあの歌が出来上がっていたんだ」

この月、バンドは5人組として初めてのイギリス公演を、グラスゴーのバロウランズ、ニュー・キャッスルのメイフェアー、マンチェスターのGメックス・センター、ソルフォード大学で行なった。Gメックス公演はセックス・ピストルズのレッサー・フリー・トレード・ホールにおける公演の10周年を祝う”10回目の夏フェスティバル”の一部で、マーはこのライブが大失敗に終わったと記憶している。ソルフォード大学公演は反対に、バンドの上昇する人気を反映したような素晴らしい盛り上がりを見せ、最後には1,500人の観客が”ハンド・イン・グラヴ”に合わせてひとつになって揺れていた。モリッシーは”女王は死んだ”というファンの間ではすでに有名になっていたプラカードの他に、この夜は”ビール2杯お願い”というプラカードを掲げて観客を沸かせた。

一方、バンドは27公演のアメリカ・ツアーの準備も進めていた。ロークのドラッグ事件によりビザがおりない可能性も考えて、彼らはガイ・プラット(後にピンク・フロイドでプレイするようになる)を採用していた。ロークは彼に自分のパートを教え込んだ。「彼はポニーテイルでね」とロークは笑う。「モリッシーが「悪いけど、僕はポニーテイルの人間と一緒にステージにあがるつもりはないからね」と言ったのを覚えているよ。だから彼は髪の毛を全部短くしたんだ。ご苦労なことにね。そしたら、僕のビザが下りたのさ」このときのリハーサルでは、禁欲的なモリッシーと他のメンバーとの亀裂がハッキリするような事件があった。「誰かが大量のLSDを持ち込んだのさ」とロークは言う。「モリッシーはベッドに行ってしまい、僕たちは皆でヤクをキメて彼の部屋近くの芝生でサッカーをやっていたんだ。狂ったように、朝の6時頃まですっとね。次の日12時頃に僕たちが目を覚まして「モリッシーは何処だ?」「ああ、彼なら今朝の6時頃に出て行ったよ。家に帰ったんだ」。で、2,3日してから戻ってきたよ。

北アメリカ・ツアーは7月末に始まった。バンドがマーの妻、アンジーを伴って旅立った朝、彼らのEMIへの移籍が書類の上で批准された。空港に行く前に僕はモリッシーのフラットに出かけていったんだ」とマーは言う。「すると、EMIからの契約書が届いていて、弁護士によってすでに整えられてあった。僕たちは全てうまく行っていると聞かされていた。「さぁさぁ署名するんだ。必ずや素晴らしい関係になるはずだから」ってねぇ。で、僕たちは署名した。ところが空港に向かう途中で「ちょっと待てよ。この契約で僕たちに入るカネはどこに行くんだ?弁護士の懐に入っちまうのか?」ってなって。だから僕たちは慌ててカネがバンドに行くようにって手紙を書いたんだ。それで、空港で投函したのさ。ショーは7月30日、クレイグ・ギャノンの21回目の誕生日にオンタリオでスタートした。「彼はまるでちっちゃな子供みたいだったよ。他のメンバーよりずっと若かったから」と、アンディ・ロークは言う。「その夜、僕たちは彼に21本のブランデーを買って、みんなの目の前で空けさせたんだ。朝になると案の定メイドがツアー・マネージャーに電話してきて、そこらじゅうゲロだらけだった。彼の腹の中に2,3本は入ったはずだよ。次の朝、彼は家に帰りたがった。僕たちはなんとか説き伏せなくちゃならなかった」「彼の部屋は消毒しなきゃならなかった」とジョニー・マーは言う。「外に「立ち入り禁止」のテープを貼りめぐらしてね。哀れなクレイグ!あれはクレイグがバンドに参加して初のホテル荒らし事件だったよ。彼もLAのホテルの部屋を壊したんだ。シラフだったのにね。消火用バケツで備え付けの照明をぶっ壊したのさ。こういうパーティっぽいことは、僕にとっては優先事項って感じだった。子供の頃から夢見ていたことのひとつだったからね。それが出来て良かったって思っているよ」

ある時は、モリッシーまでがそんなくだらない騒ぎに参加した。「どこだったかは忘れちゃったけど」とロークは言う。「彼が酔っ払って、ジョニーの煙草を一本引き抜くと吸い始めたんだ。僕たちは皆「おお!なんてことだ!見ろよ!モリッシーが煙草を吸ってるぞ!!」って感じだったよ」マーは一晩にレミー・マルタンを一瓶空けていたことを認めるが、アルコールのせいで神経衰弱になっただの酔っ払ってのパフォーマンスを繰り返しただのという批判は的外れだと主張する。しかし、ロークの記憶はやや異なる。「一度、アンジーに彼らの部屋に呼びつけられたことがある。彼はベッドでぐったりしていて、ひどく気分が悪くてめちゃくちゃ機嫌が悪かった。要するに、彼は神経衰弱になっていたんだと思うよ。どうやって助けたらいいのか全然わからないでいた記憶がある」そんな話は論外だと片付けつつも、マーは酒がマネージャーが居ないことから来る果てしない問題と共に、彼の健康に影響を及ぼしていたことは認識している。「重要なのは、僕が実際ちゃんとやり遂げられる状態じゃなかったって事。肉体的にそんな仕事には向いてなかったんだ。ガリガリのやせっぽちだったから。それにずーーっとドラマの連続だった。ツアー・マネージャーは次々入れ替わるし、すごいプレッシャーはあるし・・・・。

あのツアーの間、僕たちを動かすのはアンジーとグラント・ショウビズ(スミスのサウンド・マン)任せだった。アンジーはまだ20歳。だけどクレジット・カードを持っていてセンスが良かったから、彼女がコトに当たったのさ」アメリカで、ザ・スミスはワーナーの分家であるサイアーと契約した。バンドが大西洋を渡るころ、EMIとの契約の噂はサイアーの耳にも届いていた。当然のように騒ぎが起こった。「僕たちはLAのユニバーサル・アンフィシアターでプレイした」とマーは振り返る。「かなりプレッシャーの高いギグだったけど、うまく行った。ワーナー・ブラザーズの副社長っていう、とても穏やかな性格の男がバックステージにやって来たんだけど、なんとその彼がカンカンになっていきりたっているのさ。「彼はEMIとの契約のことについてジョニーとモリッシーと話をしたがっているんだ」って感じで。一体誰がひとりで楽屋に入っていって、バンドが無断でEMIと契約したことを弁護してくれるって言うんだ?この男はしかもむちゃくちゃ怒り狂っていて、壁にパンチを食らわして穴を開けちゃったほどなんだぜ。彼は人を脅すような人間じゃなかったけど、僕を本気で殺したがっていた。そんな状況がダラダラ2,3時間も続いて、そのうち僕たちは翌朝飛行機に乗ってどこか他のところに飛んで行かなくちゃならなくなった。この間、仲間であるアンディとマイクはいつものようによろしくやっていたから、僕も一緒に出かけて2,3杯ひっかけたよ。僕には対処のしようが無かったんだ」

おそらくは運命だろう。アメリカ・ツアーは4公演を残して終わり、ザ・スミスは家に帰った。1ヵ月後、彼らはイギリスをツアーした。そのツアーの終焉近くにクレイグ・ギャノンのスミスの一員としての生命は終わった。「彼と一緒に居ても何にもならなかった」とマーは言う。「次にレコーディングをしても、彼は何の足しにもならないだろうってことが明らかになってきたんだ。彼がそこにいる必要性が無かったのさ。僕は座ってモリッシーと歌を書いた。僕たちには僕たちなりの仕事のシステムがあったんだ。彼は”パニック”と”アスク”でプレイしたけど、たぶんその時うまく行かないだろうってことがわかったんじゃないかな。彼は僕が自分で出来ないようなことは何ひとつやってなかったからね」

ザ・スミスの栄光の年は不吉な予感に満ちた一種不気味な出来事で幕を閉じた。マイク・ジョイスと彼のガール・フレンドと一緒に飲んだ後、マーがBMWで衝突事故を起こしたのだ。その事故は車の残骸を見る限り、致命的なものになっていても不思議はなかった。「車の写真を見ると・・・・・・・ポンコツになってた」とアンディ・ロークは言う。「彼はもう少しで首を骨折するところだったんだ」そんなトラウマにも関わらず、音楽は相変わらず素晴らしいままだった。しかし、亀裂は現れ始めていた。10月に発売された”アスク”のB面の”ゴールデン・ライツ”はマーがスミスの水準以下と認める最初の作品となった。「自分が楽しくないことをやっているバンドには馴染めなかった。あんなことになったのはあれが始めてだった、ほんとに。”アスク”自体そんなに好きじゃなかった。歌詞は凄く好きだけど、自分のやってることとかがね。最後の方に行くにしたがって、自分が1,000パーセント情熱的になれない曲が2,3出てきた。以前はそんなこと全然無かったのに」アンディ・ロークは”ゴールデン・ライツ”には関わっていない。アレンジがちょっと理解しにくいと感じた彼は、情熱不足も手伝ってちゃんと取り組もうという気にもならなかったのだった。変わりにジョン・ポーターがベースを弾き、モリッシーと故カースティ・マッコールがデュエットしたものの、多くの人々がこの作品をバンドの失敗作と見なしている。”アスク”以降に発表された作品をスミスの頂点を見なす人は多い。”ストレンジウェイズ・ヒア・ウィー・カム”の大部分には”ザ・クイーン・イズ・デッド”の彼らならではの混じりけの無いクオリティに通じるものがあった。実のところ、”ストレンジウェイズ〜”のレコーディングは、ビートルズの”レット・イット・ビー”さながらに良くない雰囲気に満ちたものだったのだが。

「あのアルバムを作ったときの僕たちの写真やビデオがたくさんあるんだ」とジョニー・マーは言う。「僕たちが話したり笑ったりしているのが解るよ。だけど、バンドの終焉が近づくにつれて、音楽を演奏していないときはお互いに一緒にいて気持ちよくなれなくなっていた。僕は不幸だった。こうした不幸を隠したまま拗ねたり逃げたりしたくなかったんだ。でも、あのレコードを作ることには夢中だったんだ。あのアルバムの殆どどの曲も全部大好きだからね」

にも関わらず、ジョニー・マーはザ・スミスを脱退した。「何かが終わる時って、いろんなこと重なって、もう終わりだって気づくようになっているものなんだ。謎めいて聞こえるけど、ほんとさ。いろんなことが起こって、「僕は一生こんなことに対処していかなきゃならないんだろうか」って思ったんだ。なにしろ音楽にも現れているとおり、物凄くエモーショナルなバンドだったから。僕とモリッシーの関係からしてひどくエモーショナルだった。怒鳴りあったりするとかいうんじゃなかったけど、余りにも激しくてちょっと揺れただけでも大事になってしまう、って感じだった。マネージャーが居なかったことは大きかった。僕自身が世話してもらう必要があったときまで、人の世話をしてたんだから。それに、それまでと同じことを繰り返さず、質も落とさないまま音楽的に将来どんな方向に向かっていったらいいのか見えなかった。みんなは当時僕がプリテンダーズに参加するつもりだったとか、ブライアン・フェリー・バンドに入るつもりだったとか、予定があるものだと思っているけど、僕は最低の状況に陥って、失業保険の列に並ぶことも覚悟していたんだ。自分の決定が、自分自身や友達や妻やバンドにどんな影響を与えるか真剣に考えた。名声を捨て、そのせいで責められることになる覚悟は出来ているのか?って。だけど、一文無しになって家に帰る方が、これよりはマシだって思ったのさ。このことを後悔したことは一度もないよ」

”ザ・クイーン・イズ・デッド”からおよそ15年。ジョニー・マーはこんな風にバンドを振り返る。「ザ・スミスは素晴らしいシングル・バンドだと思われていたけど、僕たちは実際素晴らしいアルバム・バンドでもあったんだ。今、長い時間が経過していて改めて振り返ってみると、ビートルズやストーンズは別とすると、偉大なシングル・バンドであって、偉大なアルバム・バンドでもあったイギリスのバンドは多くなかったことがわかる。だけど、僕たちはそういうバンドだった。ずっとね」

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