GUITAR MAGAZINE 1997/JUN

Text By Michael Laonard / Guitar Magazine UK

Translation By Miki Yakayama

あおりモード(目が三角)

JOHNNY MARR THE AUTODISCOGRAPHY

ジョニー・マーが伝統的なギター・ソロを弾き始めるまでに、ザ・スミスの4枚のアルバムがリリースされた。彼は純粋なポップ・ミュージックを”崇高なもの”と判断し、”始まり、中間、終り”がある曲を好んだ。彼は、平均的な能力のギター・ヒーローからは切り離されたところにいるかもしれない。しかしそのことが、彼がこれほどに高く評価される理由のひとつなのだ。80年代、ザ・スミスでの彼の活躍が人々に感動を与えたのは、イギリスのチャートに覇気満々のギター・ポップを返り咲かせたからだった。シンセ・デュオ全盛の時代に、ザ・スミスは大健闘を見せた。”ジョニー・マーと出会うまでは、それほど真剣には考えてなかったね”と、近年のギター・ポップの神様、もしくはオアシスの大君主、ノエル・ギャラガーも認めている。”彼はブライアン・ジョーンズのヘア・スタイルで、白のとっくりセーターを着て、赤い大きなセミ・アコースティックを持ってたんだ。ザ・スミスが”トップ・オブ・ザ・ポップス”に出演した時に、すべてが決まったのさ。俺はジョニー・マーになりたいって思ったんだ”。

マーがザ・スミス在籍中の4年間に録音した70曲は、彼の歴史の半分しか語ってはいない。スミス終焉ののち、彼はザ・ザとともにレコーディング・ツアーを行ない、数々のセッションに参加し、エレクトロニックではクロス・オーバーしたプレイを発展させた。マーはロンドンのメイフェアー・スタジオで、彼自身のギタリストとしての過去を振り返ることに同意してくれた。ここは、彼がザ・スミス時代にレコーディングで使っていたスタジオである。思った通り、彼はのべつ幕無しに喋り、奇妙なことに、彼の自伝の最初の章はアイルランド人のパワー・ブルーズ・マン、ロリー・ギャラガーから始まったのである。”ロリー・ギャラガーが出現したのは、俺が「自分にはこれがあるんだ」って言える何かを、喉から手が出るほど欲しがっていた年頃だったね”とマーは回想する。”彼には、どこからどう見てもストリートっていうイメージがあったのさ。ジーンズ、スニーカー、使い古したギターから連想されるイメージだよ。このイメージが、俺にスーッと入ってしまったんだ。だから俺は、彼のコンサートを観にいった。そこで俺は、死ぬほど恐ろしくなったんだ。本当だぜ!彼の強烈さは信じられないほどだった。俺は病気の振りをして学校を2-3日休み、彼のレコードに合わせてプレイしたことを今でも覚えているよ”。”ある日、アルバム”Deuce”に合わせてプレイしてた。これが、ギタリストとしての俺の完璧なターニング・ポイントになったね。俺は見抜いたんだよ。ホント「弾けた!」って感じさ。ロリー・ギャラガーの昔の演奏の中に、自分がコードをプレイする時にやってる事が、まるで木霊のように聴こえたんだ。俺にとってはかなりショッキングな出来事だった。まるで自分の古い写真を見てるような感じがしたんだ”。

マーは続けざまにハウリン・ウルフと相棒のヒューバート・サムリン、ニール・ヤング、初期のレッド・ツェッペリン、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、そして、かつてはクレイジー・ホースのギタリストであり、70年代にはグリンのリーダーでもあったニルス・ロフグレン、賞賛を浴びたブリティッシュ・フォークスタイルの創始者、バート・ヤンシュのプレイを取り上げた。

”ニルス・ロフグレンは、ブルージィなスタイルとは正反対の、非常にメロディックなリード・スタイルだった”とマーは解説を始める。”彼は関係単調を弾いていることが多かった。つまり彼の場合、ストレートなロックを演奏している最中でも、本当に痛烈なメロディを弾けたって事なんだよ。俺はこの点に興味をひかれたのさ。どんなギタリストでも知ってるけど、ギターを始めた頃っていうのは完璧にイカれてる状態だから、チャック・ベリーみたいなプレイに走りやすいんだ。でもニルス・ロフグレンは、そんなプレイは一度だってしなかったよ。曲も素晴らしかったし、声がまた非常に素晴らしくて、まるで純真な少年のような声だったんだ。・・・・・ニルス・ロフグレンの影響は「ショップリフターズ」のソロで聴けるはずさ。このソロは調子外れのハーモニックスだけで弾かれてるんだ。これはスティール・プレイヤーが使うテクニックでね。俺は、絶対にブギやブルーズのリードは弾くもんかと思ってたから、インスピレーションを受けたよ。だって、ブギやブルーズのリードをやる奴なんて他にゴマンといたし、大体、俺には刺激的じゃなかったからね。今でも若い連中が弾くブギやブルーズのリードをよく耳にするけど・・・・安易すぎるって思うな。”。

”あの当時でさえ、俺は哀しいメロディに夢中だったね。だからマイナー・キーで演奏するプレイヤーを探し始めたんだ。ストレートなブギじゃなくて、感情や心象を呼び起こすような何かをね。変則チューニングが生まれたのは、たしかバート・ヤンシュを発見した時だったと思う。俺は、今でも彼からインスパイアされ続けている。彼こそが、俺のギター・プレイの核心を成すもののひとつさ。瀬戸際に立たされた時や、プレイの構想が行き詰まった時は、必ずバート・ヤンシュを聴くんだ。恐ろしくカッコ悪いものから影響を受けてるって事は承知してる。でも、これが奇妙な事実ってヤツさ”。フィル・スペクターが、彼に次なる刺激を提供した。”彼のレコードを聴いた時、俺の目の前に完全に新しい世界が開けたね”とマーは告白する。”あの当時、音楽を勉強するためにレコードを聴くって事はあまりしてなかった。好きだったT-レックスや、適当なポップ・ミュージックのレコードをかけたりって感じだったけど、例えばフェイド・アウトが短すぎたりすると、かなり苛々したものだ。・・・・・つまり、俺が若い頃ってのは、寝室に座ってニール・ヤングやバート・ヤンシュを聴きながら、ギター仲間と過ごすことが多かったし、ギター熱が段々嵩じてきてかなり真剣になってたんだ。一方俺の姉は、隣の寝室でダンス・ミュージックを聴きながら、友達と一緒に出かける支度をしてたんだよ。姉の部屋から聞こえて来る物音には、俺達よりも楽しい時間を過ごしてるって雰囲気があったし、見た目も姉達の方がキマってた。そしてこう言われたのさ。「あんたたち、何のためにこんな最低で暗い音楽を聴いてるの?」ってね。この後、俺はシック、ザ・ファットバック・バンド、オハイオ・プレイヤーズ、ウォーを聴くようになった。「心に茨を持つ少年」をよく聴けば、2ndバースが進んでいく部分のリズムパートで、混じりけの無いナイル・ロジャースが聴こえるはずさ”。

”俺は何千、何万という影響を受けているし、俺のように幅広く音楽を聴いていて、しかもそれが自分のプレイに反映してるミュージシャンって、そんなにいないと思うよ”と彼はつけ加えた。”俺の人生は音楽漬けなのさ。11歳の時から音楽と格闘してるんだから、どうしようもないよ。そうだろう?”

その通りに違いない。それでは、ギター、業績、オーバーワーク、絶望、昔から変わらないヘア・スタイルに彩られた、ジョニー・マーの意義ある13年間を、彼自身の言葉で振り返って貰うことにしよう。

ザ・スミス

”俺の心に今でもある感情は、このレコードのサウンドが気に入らないってことだ”とマーはため息をついた。”特別、誰が悪いってわけでもないんだけど・・・・・・・単純に時間と予算の無さのせいさ。「サファー・リトル・チルドレン」は俺が意図してた雰囲気を持ってるし、「プリティ・ガールズ・メイク・グレイヴス」は、あの時にしては一番いい出来だって思う・・・・・いろんな意味でね”。このアルバムのほとんどで、マーはレギュラー・チューニングの2フレットにカポを付けたギター・プレイをしている。”それは、モリッシーと俺が一緒に曲作りをしてた初期の頃に端を発してるんだ。俺があいつの家に行って、曲をプレイする。するとあいつが、それに合わせてハミングするんだよ。すぐにチューニングを上げた方がいいって気づいたね。だってあいつはバリバリのバリトーンで歌ってたからさ。それに、当時はグレッチのスーパー・アックスで曲を書いてたんだけど、このギターはチューニングを上げた方がいい音になるんだ”。”このアルバムのほとんどが、プロデューサーのジョン・ポーターから借りた54年のテレキャスターでレコーディングされてる。リッケンバッカー360の12弦も使ってて、これがのちにもみんなの注目を集めることになったけど、事実はテレキャスがメインで、レス・ポールなんてちょっとしか使ってないんだぜ”。”全体的に見て、このレコードが嫌いな原因っていうのは、アンプ・・・・・ローランドのジャズ・コーラスのせいだよ。絶対にこれが一番の容疑者だな。だって、もう80年代だったんだぜ!あのアンプは、プレイヤーにはいいサウンドに聴こえたけど、俺が思うには、前に出る音がまずかったんじゃないのかな。サウンドにデカい穴が開いてるって感じだったから・・・・・・・”。

ハットフル・オブ・ホロウ

”当時は「ハットフル・オブ・ホロウ」がリリースされることに自信がなかった。ラジオ・ワンでのセッション自体は凄く良かったけど、俺は、そいつをそのままにして置きたかったんだ。でも、のちになって、レコードにして良かった曲があるって気づいたな。「ハンサム・デヴィル」なんて特に、プロデュースされた作品じゃ絶対に出せない何かがある”。”「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」も特別だね。俺は、聴いた人が忘れられなくなるようなイントロを持ち、聴いた瞬間にこれがザ・スミスだってわかるような曲を書きたかったんだ。この点を考慮すると、この曲は結構作り込まれたものだと言える。曲全体が入ったデモを持ってスタジオに行ったんだからね。でも、トレモロはまだ使ってなかった。・・・・・まあトレモロは、ザ・スミスの曲の表面に遅かれ早かれ登場するものではあったけどね。と言うのも、当時の俺は何処に行ってもボ・ディドリーの曲を演奏してたんだよ。本当に緊迫していて、同時に湿り気のあるサウンドが欲しかったのさ”。”スライド・パートを重ねた事で、本物の緊張感が生まれたね。2弦と3弦でスライドをプレイし始めると、ジョン・ポーターがそれにハーモナイザーをかけた。その後、俺達は各弦にハーモナイザーをかけてレコーディングし、さらにB弦を半音下げて、全体にハーモナイザーをかけたんだよ。・・・トレモロ・パートは、(2フレット目にカポを付けた)レス・ポールでリズム・パートを録ってた時に出現した。その後、このリズム・パートを4台のフェンダー・ツインに送ったんだけど、ジョンが2台を、俺が残りの2台をコントロールしたんだ。ただ、このツインのシンクが乱れるたびに録音を中止して、再び頭からやり直さなきゃならなかった。永遠に終わらないんじゃないかって思ったよ。まったく、サンプラーは天の助けだね。サンプラーのおかげで、ああいう事も楽に出来るようになっただろう?まあ、そうは言っても、あの時は至福の時でもあったけどね”。”モリッシーが歌った時、俺達全員は初めて歌詞を聞いたんだ。ジョン・ポーターはこう言ったよ。「素晴らしい、モリッシーが歌詞をちゃんと歌ってる。I am the sun and the air・・・・か」。でも本当は「I am the son and the heir of the shyness that is criminally vulgar・・・・・」って歌ってたんだな。・・・・・・・いい曲さ、ホント”。

ミート・イズ・マーダー

”前作のラジオ・ワンでのセッションは、本当にやかましい演奏だったし、最終的に素晴らしいものになったから、俺は”何でわざわざ有名なプロデューサーを使う?そんなこと自分たちで出来るだろ”って思った。俺は「ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア」とタイトル・トラックと、「ザ・ヘッドマスター・リチュアル」がとても気に入ってるんだ。ギター曲として考えると、かなり時間がかかった曲でもあるね。こんな曲は滅多に出来る代物じゃないのさ”。”「ザ・ヘッドマスター〜」の基本形は、1stアルバムを作ってる時に出来たものなんだけど、なぜか忘れずにプレイしてた。この曲は、雄大なジョニ・ミッチェル風のコードで始まるんだ。モリッシーに聴かせたこともあったけど、それまで何の発展もなかったね。でも、その後、俺の人生がもっともっと強烈なものになると、それにつれて曲も強烈になっていった。この曲のブリッジとコーラスは、もともとは別の曲のものだったけど、そいつを最初の部分に一緒に突っ込んでみたんだよ。俺にとっては珍しいやり方だった。・・・・・この曲はオープンDチューニングで、2フレット目にカポを付けてプレイした。かなりオーバーダブもしてる。この時期は、俺にとってはエキサイティングだったね。16トラックのすべてをハイジャックできるんだって気づいたからさ”。

「ミート・イズ・マーダー」を、ザ・スミス時代にあなたが作った最強のギターLPと考える人もいますよ。

”本当?のちになって俺は、全体のサウンドに満足がいかなくなったけどな。薄すぎるって感じがしてね。それに、アーティスティックな部分でも、これはザ・スミスの失敗作だって思う。曲によっては速すぎるものもあるんだ。・・・・・俺のせいなんだけどさ。俺ってどんどん曲をスピード・アップさせちゃうんだよ。落ち着きが無いったらありゃしない!”

このレコードに入っているマーのオーケストラルなギター・アレンジは、疑いの無いほど印象的な一方で、バンドのライブ・サウンドに絶対的な梃入れが必要だと彼に気づかせもした。
”ライブをやる時は、観客に少なくともある程度の印象を与えたいって思うだろう?でも、ギタリストが自分ひとりしかいない場合、
オーバーダブを用いてたコード転回が抑揚の部分で、かなりの妥協を強いられるんだよ。で、大体は大きなサウンドが出る1stポジションのコードを削減する方向に行ってしまう。俺自身がワンマン・バンド的なアプローチをしてた時は、それでもけっこううまく行ってたんだけど、この頃になると、次第にそれもうまく行かなくなってきた。「ザット・ジョーク〜」なんかは、ライブでは最高のギター曲になるはずなのに、最終的には、単なる”いい曲”に終わっちまったってわけだ”。

一旦、”ミート・イズ・マーダー”ツアーが終了すると、マーはザ・スミスのステージに、クレイグ・ギャノンを2ndギタリストとして迎え入れる決断を下した。

ザ・クイーン・イズ・デッド

”「ザ・クイーン・イズ・デッド」のリズム・トラックを録音し終えて、ギターをスタンドに立てたままにしてたんだ。そしたらワウ・ペダルが偶然に半開きになっててギターを置いたのがきっかけで、あるハーモニーが生まれたんだよ。その時、俺達は卓に戻ってリズム・トラックを再生してたんだけど、俺にはこのハーモニーが、まるでむせび泣くように聴こえたね。だから俺は、ブースに忍び足で入って行って、ワウを全開にする間にレコーダーにテープを戻したのさ。”お願いだ、死ぬな!死ぬなよ!”って祈る気持ちでね。結局、ハーモニーの命を存続できた。あれは最高のアクシデントだったね”。

「セミテリー・ゲイツ」では数多くのオープン・チューニングが出現する。

”ラフ・トレードと契約した時、俺達は偉大な新人ソングライターとして、女王陛下並みの歓迎を受けたんだよ。で、俺は帰る途中の電車の中で考えたのさ。「わかった、そんなに素晴らしいんだったら、明日の朝起きて一番に最高の曲を書くしか無いな」ってね。そして「セミテリー〜」のオープンGのBmからGチェンジへって具合に書き出したのさ”。”サウンド的にはまともなものを作ったぜ。でもこのアルバムは、かなり暗い時期の非常に暗いアルバムになってしまった。昔、バンドの連中が、アルバム制作の環境っていうのは子宮にいる時の感じに酷似してるって言ってた。俺はそれに憬れてたのさ。でも俺は・・・・現実を知ったね!子宮内の感覚でアルバムを作るのは、一度で充分だって思うよ。限界ギリギリまで自分を追い詰めたからさ。ユーモアに欠ける発言だってわかってるし、実際の製作過程はもっと楽しかったよ。でも、実情はそうだったんだ。俺達はマネージャーがいなかったから、バンドをまとめるのは俺とモリッシーの仕事だったし、その上、俺達は相変わらずインディーズにいたしさ。まあ、そんな逆境の中でもこんなに素晴らしいアルバムを作れたんだけどね。「ネヴァー・ハド・ノー・ワン・エヴァー」なんて、あの時みたいなボロボロの精神状態じゃなかったら絶対に生まれなかった曲だよ”。

ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム

”実は、これがザ・スミスのアルバムの中で一番好きなんだ。このアルバムでバンドは解散したけど、いいセッションだったよ。1-2曲、アコースティックをメインにした曲(「ガールフレンド・イン・ア・コーマ」と「アンハッピー・バースディ」)があるんだけど、凄く気に入ってる。今聴くと、あれはオーガニックなレコードだって思うね”。”俺は、エレキ・ギターのパートに重きを置きながらも、その層を薄くしたかったんだ。このアプローチは「アイ・スターテッド・サムシング」で聴けるよ。アコースティックで弾いてない曲は、主に12弦のES-335で弾いた。かなりの曲、例えば「アイ・スターテッド〜」、「ペイント・ア・バルガー・ピクチャー」「ストップ・ミー」なんかが、このギターで弾いた曲でもある。12弦の335って本当に大きなサウンドがするんだよ。俺は、自分のメインのギター・パートを変えてしまうことが多かったけど、このアルバムではそれが無かったんだ”。

マーは自分のギター・ソロが初めて的確に収録された曲として「ペイント・ア〜」を選んだ。

”ああ、あれは大変だったぜ!”と彼は苦々しく笑う。”みんなをスタジオの外に出さなくちゃならなかったんだ。それに蝋燭を2-3本用意して・・・・それは嘘だけどさ。でも、この曲にはそんな雰囲気がピッタリだった。俺は、ギター・ソロっていうものは、聴いた人間が口笛で吹けるものでなければならないって、そう考えてたんだ。でもこの曲をやってから、ロジャー・ウィッテイカーですら吹くのが難しいソロを録音するようになったのさ。・・・・ザ・スミスについて俺がイライラしたことのつとつは、俺が型にはめられつつあるってことだったね。ギター・パートの半分も聴こえてない人間ですら、ザ・スミスのレコードを聴く事は出来たし、ハードなギター、ディストーションがかかったギター、逆回転ギター、スライド・ギター、アコースティック、ナッシュビル・チューニング、オープン・チューニングなんか、俺にはちゃんとわかってたんだ。でも俺が音楽誌を開くたびに目にする言葉は「ギターをかき鳴らすだけのジョニー・マー」だった。もう、うんざりだったね”。

ザ・スミス解散後、マーは様々なセッションに現れるようになった。ブライアン・フェリーの”ベイト・ヌワール”(シングル「ザ・ライト・スタッフ」は、マーが書いたザ・スミスのインスト曲「Money Changes Everything」のボーカル・バージョンだ)に参加し、映画”カラーズ”のサントラをやり、カースティ・マッコールのアルバム”Kite”で味のある仕事を見せ、トーキング・ヘッズのアルバム”ネイクド”に2-3曲で参加したりもした。しばらくの間、彼はザ・プリテンダーズに加入するような素振りも見せていたが(実際にシングル曲のレコーディングに参加し、短いツアーもともにした)、彼が久しぶりに行なったフルタイムのプロジェクトは、周知のようにザ・ザのギタリストとしての仕事だった。

”実は、ザ・スミスが結成される以前から、マット・ジョンソンとは知り合いだったんだ”とマー。”マットと俺を離していたものは、金銭的、地理的な問題だったのさ。俺達は、初めて会った瞬間にピンとくるものを感じた。マットは”バーニング・ブルー・ソウル”の何かをプレイしてくれたし、俺はのちに”サファー・リトル・チルドレン”になった曲をプレイした。俺達の結び付きは、本当に固いものだったよ。彼は、俺が知っている中では、俺と似たスタイルでプレイする唯一の男だったんだ。ザ・スミスに居た当時、俺はマットのレコードを聴いて「俺の方がもっとうまく弾けらあ!」って思ってたんだぜ(笑)”。”俺達が集まったのは、信じられないくらい素晴らしい偶然だったね。だって俺は、本当にデヴィッド・パーマー(d)やジェイムズ・エラー(b)と一緒にプレイしたいって思ってたし、彼らと一緒にバンドを組むことまで話し合ってたんだから。それと同時にマットがそれぞれをザ・ザに誘ってたわけだけど、”さあ、お立会い”ってなもんで、全員がザ・ザに加入することになったわけだ。これは俺にとって、いろんな意味で完璧だったね。だって、ザ・ザに加入することで、俺はミュージシャンを続けることを許されたわけだし、緊張感のあることをやり続けることができたわけだからさ。でも・・・・・ザ・ザに入っても、メディアの連中が起こしたスミス解散にまつわる馬鹿騒ぎから逃れることは、やはり出来なかったけどね”。

マインド・ボム

”マットは俺に、本当にメロディックで雰囲気のあるオーケストレーションにハマってほしいと思ってたんだ。これは、特にライブで凄くうまく行ったよ。ザ・ザでのライブを50回こなした頃には、俺はハーモニックス職人になってた。ひとつのコードで、ふたつくらい調子外れのハーモニックスを弾き、そのあとワウを使ってギターのボリュームを上げ、奇妙な急降下爆撃効果を出すためにストラトのブリッジを押し倒すのさ。こんなことは他のギタリストもやってるけど、コードでやったやつはいないぜ。俺はタッピングにも夢中になった。まあ、”味のあるタッピング”ってヤツでね。マットがテープ・ループで作ったもののいくつかを、俺が再現しなくちゃならなかったのさ。それは、控えめに言っても無謀な挑戦に近かった。かなりエキサイティングだったけどね”。”俺はその頃、ステージではギター一本で全部の曲をプレイしたいって思い始めてた。他のことはテクノロジーに任せればいいんだってね。スミス時代の俺は14本のギターをツアーに持って行ったけど、ザ・ザの時はストラト2本だけだったよ。あとはラックなわけだけど、このラックが、俺の持ってるギター・コレクションの総額よりも高くつくんだから!””俺は「ザ・ヴァイオレンス・オブ・トゥルース」のメチャクチャなワウのリフ(2ndバースからのパート)が凄く気に入ってるね。マットの押しの強さは半端じゃ無かった。俺なんて、音を上げる寸前だったもの。「頼むから、お願いだから、テープ・マシンをもう少し遅く出来ないか?」って懇願したものさ。まったく、マットって男は気難しい親方だぜ。でも彼は、組んだ相手のミュージシャンとしての能力を、確実に伸ばしてくれる男なんだよ”。

ザ・ザとのツアーを続けながらも、マーは次なるプロジェクトに着手し始めた。当初それは、元ニュー・オーダーのボーカル兼ギタリスト、バーナード・サムナーのソロ・アルバムにゲスト参加するという計画だったのだが、ともに行なった曲作りが満開の花を咲かせたため、エレクトロニックという新たなバンドを組むことに発展したのだ。サムナーのエレクトリック・ポップと、マーのギター・クラシシズムとの融合は、一見奇妙な組み合わせに思えた。しかし、これによってマーは、ザ・スミスのサウンドから離れた新たな方向性を獲得したのである。しかしマーは、それにも関わらず、エレクトロニックは完全に勘違いされたと主張する。それによって生まれたのが、怪訝な顔の聴衆とプレスだったと・・・・・。

”エレクトロニックのサウンドは、ザ・スミスが結成された当時にザ・ハシエンダ(マンチェスターのクラブ)で演奏してたサウンドに通じてるんだ。バンドの初期の頃でさえ、俺はクラブの影にいた人々と密接に関わってたんだぜ。・・・・・ザ・ハシエンダは本当にエキサイティングなクラブに見えたし、アメリカの音楽を主に流してたから、俺はほとんど毎晩通ってたよ。当時の俺のフラット・メイトがそこでDJをしてて、ニューヨークの無名なレコードをかけてた・・・・・のちにヒップホップに発展した音楽さ。俺は、自分がそういったものの全てを吸収したと言うつもりはないけど、当時でもちゃんと理解はしてたよ。ニュー・オーダーはこのスタイルを取り入れて、自分たちのスタイルを築き上げたんだ。でもそれは、85年にザ・スミスにいた俺がやっていいものじゃなかっただろう?””だから俺にとっては、バーナード・サムナーとグループを組むってことは奇妙でも何でもなかったね。彼は80年代のイギリス人ギタリストの中で、情熱を持って音楽を作ってきた唯一のプレイヤーだもの。俺は、いつも彼がニール・ヤングみたいにギターを弾いてるって思ってたよ。本当さ”。

エレクトロニック

”このアルバムは本当にうまくいったって思う。素晴らしい曲もいくつかあるしさ。ギター面では、俺が初めてMIDIギターをプレイしたアルバムだから、、かなりシンセっぽいサウンドになってる。また、初めて実のある量と呼べるだけのキーボードをプレイしたアルバムでもある。俺にとってMIDIギターは本当に簡単だったね。だって、俺自身が最高のシンセサイザー・プログラマー兼プレイヤーのひとりだと思ってる男、バーナードと一緒に仕事をしてたわけだし・・・・・・。彼はまるで、ボリュームのツマミを下げるような感覚で、数あるキーボードの中から素晴らしいサウンドをセット・アップしちゃうんだ。オシレーションだの波形だの、何でも知ってるんだから”。”ただ困ったことに、バーナードは全くギターを弾こうとしなかったんだ。「君がいるのに何で俺が弾かなくちゃいけないの?君がやれるだろう!」って感じでね。みんなはこのアルバムをきっかけに、バーナードが俺をシンセ方面に傾倒させたって思ってるみたいだけど、本当はね、彼が見てない隙に、俺が勝手に自分のギター・パートをカットしたんだよ。だって当初は、あまりにも「ジョニー・マーです」ってサウンドだったからさ。そんなことで、俺達の音楽に水を差したくなかったんだ。純粋なダンス・ミュージックのままにしておきたかったんだよ。いったんそこに人間的なエッセンスが入ってしまうと、本来のエッセンス、つまり機械的な要素と容赦の無いエネルギーは消えてしまうんだ”。

ダスク

”このアルバムと「マインド・ボム」の違いは、「ダスク」では、曲を書いている最中に俺がその場にいたってことだ。言っておきたいのは、ザ・ザに加入した瞬間から3年半の間、俺が24時間バンドと行動を共にしたってことだよ。マット・ジョンソンの家にリムジンで乗りつけて、2-3のギター・パートを演奏してあとは雲隠れなんてことは、絶対になかったんだから。・・・・・・「ダスク」は自分が参加したレコードの中でも、ベストの一枚だね”。”「前世のスロー再生」なんかは俺らしい曲だろう?例の「ジャカジャカジャ〜ン」も入ってるしさ(と嫌な顔をする)。でも「欲望の犬ども」は、俺がこれまで聴いた中で最高のロック・レコードの1枚といえる出来だし、それもひとえにマットのボーカルのおかげだよ。本当にいい曲だね。これは、俺が今までやったギター・トラックの中でも、最高のもののひとつだ。この曲をレコーディングしてた時も、またまたマットの押しの強さが発揮されたんだね”。

レイズ・ザ・プレッシャー

”奇妙なことに、俺達全員の中で最も伝統に固執してたのがカール・バルトスだったんだ。彼は、心底60年代のポップスにイカれてたね。ザ・スモール・フェイセスとかザ・キンクスとかさ。だから、物事の出来上がり方がちょっと変なんだ。俺達は、ギターとテクノロジーのバランスを取りつつ、現代的なサウンドにしたいって思ってたのさ。今になってこのアルバムを聴くと、サウンドが緻密過ぎるって感じがするね。アイディアとフックでいっぱいって感じだよ。でも、ある程度の時が経ったら、これが本当に強力なポップ・アルバムだってことにみんな気づくはずだ。それこそ俺達が意図したことなんだから。・・・・・・このアルバムは凄くソウルフルだって思う。「セカンド・ネイチャー」、「ヴィジット・ミー」、「ダーク・エンジェル」なんかはアップ・ビートで、痛烈で、メロディックで、物悲しいだろう?ハッピーな曲なのか、悲しい曲なのかすらわからなくなる。こういう曲は俺好みだね。いつになったら自分がこういう曲を書かなくなるのか、自分でもわからないんだよ”。

インタヴューの一週間後、マーはマンチェスターの自宅に戻り、エレクトロニックの新作用のデモ作りを始めた。彼は、今”営業中”に戻ったと電話越しに語り、97年半ばまでには、ギター・サウンドが中心になったエレクトロニックの新作をリリース出来ると約束してくれたのだ。

”俺は異なるチューニングとカポを持ったギターがいっぱい置かれている部屋の中をウロウロしてる時が、一番幸せだね。つまり、自分の評価基準が頭の中にあり、ギターが異なる言葉で話しかけてくるって状態さ。最近、自分のプレイについて考え続けてるんだよ。俺は今までずっと、簡単に出来る常套手段に反対する立場にいたんだろうな。俺の思春期には、小便の垂れ流しのようなプレイは違法だったんだぜ。当然だよ。そんな演奏をするプレイヤーには、樺の鞭を復活させるべきだな!”

彼のプレイは今後どん方向に進むのだろうか?

”推測するのは難しいよ・・・・地下に潜るんじゃないのかな”とマーは曖昧な返事を返してきた。”例えば今現在、俺はある新しいテクニックに興味を持ってるんだ。そのテクニックとは、サム・ピックを使って調子外れのハーモニックスを組み合わせ、フィードバックにどの音符をプレイしたらいいのかを伝え、その上でオクターブ・ボックスを2個使って、伝えた音符を飛び跳ねさせるってものなんだ。オクターバーを2つ使えば、音符を1オクターブ飛び降ろさせたあとで、再びもとの場所に着地させることも出来る。これはかなり使えるぜ。まあ、フィードバックは死ぬほどびっくりするだろうけど、メロディックさは残されてるんだ。これも、明快さを避けるひとつの方法ってヤツだよ”。

しかし大勢の彼のファンは、彼が再び4人編成のバンドで明快なプレイをすることを望んでいるのでは・・・・・というのは、ヘソ曲がりな質問だろうか。

”はい、はい”とため息をつくマー。”あのさ、今のギター・ポップにしろ、ギター・ロックにしろ、完全にイタチごっこ状態だってことが問題なんだよ。俺は、もうちょっと新しいことをしたいだけだ。俺は変化を好むんだよ。ドグマってのが大っ嫌いでね。昔のグループに影響を受けたって言うミュージシャンの多くが、相対性の何たるかを見失ってるんじゃないのかな。「本物らしさ」に固執することでジミ・ヘンドリクスが出来上がったわけじゃないのにさ。もしも彼が「本物らしさ」に固執していたら、彼は純粋なデルタ・ブルーズを演奏してただろうさ。本物らしさに固執することでビートルズが生まれたわけでもない。あれは、情熱と、素晴らしい才能と、斬新な発明だったんだよ”。

彼のこの言葉、かなりマジのようだ。

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