CROSSBEAT JAN.1994

珍ポージング。

Interview : Stuart Maconie From Select

Translation : Mika Nakamura

92年末にザ・スミスの2枚のベストアルバムが発売されたのは記憶に新しい。そのしばらく前にはモリッシーとジョニー・マーが再び共にスタジオで作業しているというニュースが流れたが、これはその2枚のベスト盤を編集する作業の為だった。スミスの楽曲の版権がラフ・トレードからワーナーへ売却された為の出来事であったが、今度はラフ・トレードから出ていたコンピレーションを含む過去のスミスのアルバム全8作品が再発される。今回のこのジョニー・マーのインタヴューは、その再発化に合わせて行なわれたものである。彼は現在、イアン・マッカロクの新作での共同作業を終え、今度は自身とニュー・オーダーも一息ついたバーナード・サムナーとのエレクトロニックに取り掛かるところだ。ザ・ザの方はツアーには参加しなかったが、映画を製作したり、それ以外にもセッションに参加したりと精力的に活動を行なっている。その彼が今回は、スミス時代の思い出や各アルバムや曲の解説、そして現在のモリッシーとの関係についてまで語っており、2人は現在も共に連絡を取り合ったりしているようだ。11月20日付のNME誌では2人を表紙にして、「再び共同作業を開始した」というニュースが掲載されている。ただしこれは噂の出所が件のジョニー・ローガンという事で真相は不明だが、未だこの2人が雑誌の表紙を飾り、トップ・ニュースで扱われるというのはその人気の証である。レノン=マッカートニー以来のソングライティング・チームの片割れ、ジョニー・マーの語る真のスミスの歴史である。

毎日必ず一度はギターをプレイする?

「いや、しない方が新鮮な気持ちを保てる。離れていた方が良いアイディアがわき出てくるんだ。楽器を弄んでればそのようにしか聞こえないし、後にも先にもギターは手段だからね。そう思ったからこそ、僕のスタイルはごった煮になったんだよ。最初にギターを始めた頃から、僕はギターに弦楽器や打楽器やその他の全てのものの役割を同時に果たしてもらいたかったんだ。僕はソングライターとしても、プロデューサーとしても、ギタリストとしても成長したいんだ。つまり、レコード・メイカーとして大きくなりたいって事。みんななかなか信じてくれないけど、僕はもともとツアー人間じゃないんだよ」

スミス時代のツアーは快楽的で度の過ぎたものだったんだろう?

「確かに。どうやら僕が、スミスが次のU2になるまで世界中を引っ張り回してたって話になってるみたいだけど、そんなの嘘。それより僕はギターでフィル・スペクターになりたかったし、それは今でも変わらない。それを動機に音楽の世界に入ったようなものだからね。スミスから抜けた時、人々は僕にスラッシュとか、今までの僕と全然違うことをやって欲しがってたね。でも僕はただ、音楽に刺激を求めたいだけなのさ。スミスが終わってから関わった4,5枚のアルバムも、スミスの前に手掛けたものも、どれも素晴らしい作品ばかりだと思うんだ。延べにしたら100曲以上ある中で、気に入らなかったものは一つも無いよ。確かにスミスは偉大だったし良いバンドだったから、何もかもがスミスに比較されるのは自然な成り行きだよ。モリッシーも同じ悩みを持ってる。でもこういう事は時間が解決してくれるだろう。頂点に立ってた時のスミスと充分対抗できる曲も何曲か書いたし。エレクトロニックの”ゲット・ザ・メッセージ”や”フィール・エヴリ・ビート”、ザ・ザの”欲望の犬ども”や”前世のスロー再生”・・・・・・・というか「DUSK」そのものがいいよね。それからカースティ・マッコールとの”ユー・アンド・ミー・ベイビー”も」

アルバムが再発されるということで、スミスの話をするのは的を得てると思ってるけど。

「もしそれで、若い世代が初めて聴いてくれるのなら大いにハッピーだね。僕とモリッシーの山あり谷ありの関係についてや、解散については嫌というほど書かれてきたからもういいよ。でも、最近再認識され始めてるスミスの膨大な作品についてなら、いくらでも話すよ」

君はいつどの時点で、スミスは非凡なバンドだと気がついた?

「モリッシーと出会って二日目に初めて一緒に曲を書いた時。出会った瞬間もう何かをやり始めてたんだよ。僕もモリッシーも、人生とバンドから多くを求めてた。そんな僕らが、このバンドは素晴らしいと感じたんだ。4人編成になるまで二人で色々な事をやってみた。二人とも決して当たり前の人間じゃないけど、人々に影響を与えたいならそのぐらいじゃなきゃダメだと思う。自分たちは世界一だと信じなきゃやっていけないし、そう思えたからこそスミスはああなれたんだ。誰一人として自分たちには及ばないとマジに思ってたからね。そうだ、いいフレーズを引用させてあげるよ。我々はビートルズやローリング・ストーンズと同じくらいいいバンドだった。ただ20年遅かっただけ」

そして最後のポップ・グループとも言える?

「今の所はね。でも将来的にはわからないよ。失うもののない18歳ほどパワフルなものはないからね。かわいそうに、1993年の17歳は疲れるだろうね。自分は最高だと思ってるのに、何年も前に解散したバンドのオヤジがのこのこ出てきて”俺達こそ最後の偉大なるブリティッシュ・バンドだ”って豪語してるんだから!(笑)」

いい刺激になるんじゃないの?要するにスミスは身の周りの平凡さへの抵抗だったんだろう?

「まさに。最初にバンドを結成した頃、まわりにはチャイナ・クライシスみたいなバンドしかいなくて、別に彼らを責めてるわけじゃないけど、結局あの手の音楽はレコード会社にとって安全パイで、意見もへったくれも持ってないだろ?全ての人間好みに作られているのに、特に誰にも好まれない音楽ってわけ。そんな中、僕に火をつけたのはパンクだった。それほど夢中にはならなかったけど、学校じゃブームタウン・ラッツやトップ40バンドのTシャツを着てるアホどもばかりだったからね。結局僕は独自の音楽開拓をせざるを得なくなり、タムラ・モータウンから60年代のブリティッシュR&Bに飛び火した。それからビートルズの曲は全部歌えたし、女の子バンドとかも好きで、その全てをひっくるめたものがスミスの土台になっていったんだ。そして一緒にシャングリラズの音楽を楽しんでくれるヤツを探してるうちに、そんなヤツはたった一人しかいないって事に気づいた。それがモリッシー。ビリー・ダフィの紹介だったんだよ」

最初の頃のリハーサルってどんな感じだった?

「テンションがビリビリに高くて、とっても妙だった。初期のスミスは僕とモリッシーと数人のミュージシャンで、僕とモリッシーばっかりがヴィジョンを追いかけてるって感じで、まだまだ未完成だった。まずはメンバーを決定するのが先決で、僕としてはそれを誰にするのか心に決めてたけど、実際に彼らを引き入れるのが課題だったんだ」

ブルー・ロンド・ア・ラ・タークの前座でプレイした初めてのギグを覚えてる?

「よーく覚えてるよ。興奮したなあ。とっても変なセットだったけどね。あんなもの、誰も体験したことなかったはずさ。最初に男性ゴーゴー・ダンサーがハイヒールを履いて出てきて、クッキーズの”I Want A Boyfriend For My Birthday”をカヴァーして、ど頭からみんなブッ飛んだね。マンチェスターのリッツという会場だったんだけど、メイン・ストリーム的にトレンディなブルー・ロンドを見た瞬間、絶対にやっつけてやろうと思った。当時のスミスは相当な美意識を持っていたよ。もちろんブルースを取り入れた音楽も悪くなかったけど」

スミスの最初の声明は”ジス・チャーミング・マン”だったといわれてるけど。

「あの曲はジョン・ピールのシングルの準備用に書かれたんだ。”プリティ・ガールズ・メイク・グレイヴズ”と”スティル・イル”と同じ晩にね」

一晩分の仕事にしては上出来だね。

「あの頃はいっぺんに三曲ずつ書いて、それをテープに入れてモリッシーに渡すと、その翌日か、遅くとも二日後には完全な曲になっていた。それをリハーサル・ルームに持って行くわけだ」

初めてトップ・オブ・ザ・ポップスに出演した時のことは?

「素敵な思い出さ!あれは生番組だろ?何かマヌケな仕種をすると喜ばれるんだけど、僕は足を動かさずに体を動かす真似をしてた。周りには風船が一杯あって、モリッシーは花を持ってたっけ。その後ハシエンダでギグをやったんだけど、はっきり言って狂ってたね。ピカデリー駅に着いたら迎えのマイク・ピカリングが「会場は大騒ぎになってる」って言うんだ。その日がその後三年続いた”A Hard Day's Night”の初日で、会場内に2000人、外にも1000人ってな具合で、殆ど人の頭の上を通って会場に入ったよ。出てきたら車のナンバー・プレートが盗まれてた」

1stアルバムについてはどんな思い出がある?

「マンチェスターのプルート・スタジオ。最初はロンドンのウォッピングで作り始めて、それはエキサイティングだったけど、毎晩5時間ぐらいしか寝られなくてハード・ワークだった。ところが終わってみたら問題が出てきて、トロイ・テイトは結構怒ってたけど、ブートレッグで手に入るから聴けば解るけど、確かに何かが間違ってた。結局ジョン・ポーターと一緒にマンチェスターで録り直したんだ。デヴュー・アルバムとして最高だったとは決して言えないけど、あの頃出回ってたものの中では一番良かったと思う。しばらく聴き直してないけど、曲はどれも良かった。ただ、あのアルバムは叩かれて当然のようになってた。一般人はマスコミの批判をまるで自分の意見のように繰り返す事しか知らないから」

しかしあのアルバムからは素晴らしいヒット・シングルが何枚も出て、怖いものなどないと思ってたのでは?

「確かに。でもそれは僕達が常に曲を書いてたからこそ持てた気持ちなんだ。あの年は大晦日にNYのダンステリアでプレイするために行ったんだけど、マイクが病気になってギグが出来なかった。帰国を待ってる間、モリッシーと二人でホテルの部屋で書いたのが”ヘヴン・ノウズ”なんだよ。そしてイギリスに戻った日”ガール・アフレイド”を書いた。正直言って、僕は”ヘヴン〜”があまり好きじゃない。嫌いじゃないけど、もっと好きな曲が他にある。メロディとバッキング・トラックがダメなんだ。リズムが気に入らない」

彼らの2ndアルバム”ミート・イズ・マーダー”はイギリスチャートNO.1に輝き、蹴落としたのはブルース・スプリングスティーンの”ボーン・イン・ザ・USA”だった。

”ミート・イズ・マーダー”の思い出は?

「リヴァプールのアマゾン・スタジオに毎日通ったこと。真白なリムジンに乗って、街の工場地帯を走り抜けるんだ。その頃にはロンドンに移り住んでて、セルフ・マネージングしてた。マンチェスターから離れるのが一番だと思ってリヴァプールに決めたんだけど、それで分かったのは、次のアルバムはマンチェスターじゃなきゃダメだってこと。あの雨が想像力を刺激するらしい」

あの頃のインタヴューで君は「スミスの話をするより、サッカーやファッションの話をしてる方が楽しい」なんて言ってたよね。

「そう、あまりインタヴューはやらなかったよ。今もそうだけど!(笑)1988年頃は、ファッションや音楽についておしゃべりするのが当たり前だったし、僕としては完璧なペリー・ボーイを目指してたからね。オーディエンスの男の子達にもそんな僕の気持ちをわかってもらいたくてコーデュロイをはいてたんだ。まるでゲームのようで楽しかったよ。モリッシーのけしかけ方は最高だったね。ロック・ガーデンのギグなんかブラウスや巻き毛の男の子たちが沢山来てたよ」

このアルバムは君たちにとって”リヴォルヴァー”なんだろう?

「だといいけどね!(笑)”リヴォルヴァー”ほど長持ちするかどうか分からないけど、”ノーホエア・ファスト”みたいな良い曲も入ってるからね。”ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア”は長い間僕の一番好きな歌だった。”ウェル・アイ・ワンダー”もいいね。当時のスミスの雰囲気を反映してるよ。寒々としててね。別にバンドの中が冷えてたって意味じゃないよ。僕達はセルフ・マネージャーでいたかったのに、様々な人間がマネージャーになりたがって、それなのに一人も適当な人間は居なかったり、やりたくもないテレビ出演が多かったり、行きたくも無い国に行かされたり、やりたくもないインタヴューをやらされたり。僕達はただギグをプレイして、レコードを作って、ジョン・ピール・セッションに出るだけで良かったのに」

メンバー間に摩擦は生じた?

「いや、反対に絆は強まった。当時も今も、他人がスミスの内部まで攻め込むのは無理。多くの人間が僕やモリッシーに近づこうと努力をしたけれど、そのたびに僕達の距離が狭まり、結局部外者は一切入れないクラブと化していった」

その頃、あまりに順調すぎて何かが間違ってるなんて疑ったことは?

「その頃はなかったよ。少し後の話になるけど、最後のアメリカン・ツアーの時、僕もモリッシーもそろそろ終りの始まりだってことを分かってた。ある晩皆でバーに座っていた時、同行してたジャーナリストが”手に入れたいものを全て手に入れられるって素敵な気分だろうね”なんていうんだ。でもその時最高に落ち込んでた僕は”いや、圧倒的に虚しい気分だよ”なんて答えてさ。まったく、うまく行かなくなると妙な気分になるもんだよ・・・・というわけで”ミート・イズ〜”は寒々しい雰囲気を持ってた。リヴァプールの工場地帯に閉じこもっていた僕たちに、人々は何とか付け入ろうとして、でも僕達の場合それが反対に動機になっていった。モリッシーと僕は殆ど眠らなくて、逆に二人が一緒じゃなかったのは寝てるときだけだった。 僕と妻のアンジーとモリッシーはいつも一緒だったよ」

二人も親友がいて大変じゃなかった?

「いや、自分は世界一の幸せ者だと思ってたよ。一人の男と最高に親密なパートナーシップを組み、一人の女と最高に素晴らしい関係を持つ。文句なんて言えないだろう?」

彼らは必死にセルフ・マネージメントを続けていたが、やがてアンディ・ロークの度を過ぎたヘロイン中毒が彼をしばらくの間バンドから離れさせ、代りにクレイグ・ギャノンがセカンド・ギタリストとして加入する。そして彼らが混乱状態に入ったにも拘らず、次のアルバムは高い評価を受ける事になる。

”ザ・クイーン・イズ・デッド”は名作だとされてるけど、君はそう思ってないらしいね。

「じゃなくて、僕は人々がマスコミの意見ばかり参考にして、自分の耳で確かめないってことが嫌だったんだ。そりゃ僕達のベスト・ワークかも知れないよ。でもそれを言うなら”ラウダー・ザン・ボム”も聴いて欲しいよ。僕達はシングルに大きなウェイトをおいてたからね。”ザ・クイーン・イズ・デッド”を作ってる時は病気になりそうだったよ。だってほとんど太陽を見なくてさ。完全に没頭してたから。僕はこのアルバムをどう作ればいいのか完璧に把握していたし、自分で自分をギリギリの線まで追い詰めた方がいいものが出来ると知っていた。つい最近”ネヴァー・ハッド・ノー・ワン・エヴァー”を聴いていたんだけど、あんなに良い曲だって事を忘れてたね。でもこの曲は殆ど狂わんばかりの自己陶酔の中から生まれたのさ。僕としては自分なりに最高級のアートを作らなければと思ってた。そして自分の受けてるプレッシャーはきっとチャーリー・パーカーもキース・リチャードもレニー・ブルースも受けてるプレッシャーと同じだろうと信じてた。マンチェスター出身の現実的なガキにしてはやけに見栄っ張りだろ?僕はちっとも現実的じゃないんだよ。別になりたくもないし」

この頃、アンディが離れてクレイグが入ったよね?

「やむをえなかったんだ。もうアンディとはツアー出来なかったし、みんな頭に来てたからねえ。バンドにはプロデューサーもマネージャーもいなくて僕とモリッシーが全部やってただろう?毎日毎晩必死に働いて、ベース・パートやピアノ・パートを入れてるとラフ・トレードから電話が入って告訴されたとか言われて、その上毎日毎日大衆紙に追い掛け回されて、誰だって感情的になるよ!22歳には相当の重荷だよ」

アンディとマイクは正当な支払いを受けてなかったという話があったけど、それは君とモリッシーがビジネスの一切を取り仕切ってたから?

「多分ね。そういう事が起きると”僕はどうすればいいんだ!助けてくれ!”なんて思ったけど、そういう事があるから余計スタジオにこもる時間が長くなって、結局機材が運ばれてきた日からレコーディングが終わる日の朝7時までずっと入りっぱなしだったよ。ミキシング、カッティングを含めて8週間、いや12週間だ。でもそうやってるうちにプロデューシングを覚えたんだけどね」

そういう状況から抜け出したいと思った?

「思った。人生とは今も昔も音楽によって動かされてるもので、僕としては長い人生にしたかったんだ。ロックンロールの受難神話には魅力を感じないね。泣き言のように聞こえるかも知れないけど、あのバンドには強力な絆からその崩壊まで全てが存在した。死以外は。他に悲劇的なバンドはあっても、僕たちほど激しく滑稽なのはない。いんちき臭くて時代遅れともいえるけどね。ポップの基本は間違った経済だけじゃない。間違ったイデオロギーでもあるんだ。そしてそれは、少なくとも15年は遅れてる」

でも行き過ぎの生活が君の首を絞めていることに気づくまでは楽しかったんだろう?

「そうだけど、僕はいわゆるロック人間じゃないからね。ブラック・クロウズみたいなバンドと同じロック神話の中にスミスを入れて欲しく無いね。昔からキース・リチャードになるのはステージの上だけでいいと思ってた。その他の時は自分自身でありたかったからね」

この時代の曲で好きなのは?

「”ザ・クイーン・イズ・デッド”はいいね。僕はMC5やストゥージズのファンだったんだけど、この曲はストゥージズを超えている。ガレージっぽいノリの中にエナジーとアグレッションが満ち溢れてる。それから、まさか”ゼア・イズ・ア・ライト”がアンセムになると思ってもみなかったけど、最初にプレイした時からこの世で最高の曲だとは感じてた。この曲には内輪のジョークが含まれてて、僕のインテリ度が分かるようになってるんだ。当時は全ての人間がヴェルヴェッツに夢中になってたけど、彼らはストーンズがカヴァーしたマーヴィン・ゲイの”ヒッチ・ハイク”から”ゼア・シー・ゴーズ・アゲイン”のイントロを盗んでたんだよ。僕はマスコミを試すために、この曲の中にちらっと入れておいた。僕の方が絶対スマートだと知っていたし、僕とヴェルヴェッツは同じものを聴いてたわけだから」

当時のツアーは伝説になりつつあるよね。放蕩で快楽的で。

「そうだけど、別に必要としてたわけじゃない・・・・・というのは嘘かな!(笑)。要するに逃げ道だったのさ。でもちっともいい暮らしじゃなかったんだよ。ヒドいホテルばかりだったし、”君たちは思ってるほどビッグじゃないんだ”と繰り返し聞かされてたし。モリッシーは決して快楽主義者じゃない。でも普通でなかったことも確か。だから僕たち以上に逃げ道を必要としてたんだろう。フロントマンであるが故、僕以上に重圧を感じてたしね。だって様々な人が彼にアプローチをかけてくるんだよ。時には僕が壁代わりになってたぐらいさ」

メンバー間はうまくいってた?

「いってたし、今もいってる」

でも人々はそうは思ってないよ。

「4人のメンバーの間では、僕とモリッシーが最もうまくやってた。今でも会ってるよ。昨日も電話で喋ってた。最後に会ったのは彼がこの前のアルバムを作り始める前日だったな。まあ、ネタに乏しいマスコミの恰好の餌食になってあげるよ。でも僕たち二人の間にはテレパシーのようなものがあって、それは離れててもちゃんと生きてるんだ。マスコミとはゲームをしてるようなものさ。でも真実は、二人は友達だよ」

クレイグ・ギャノンについては?

「(うんざりしたように)色んな人が色んな事を言い過ぎるよ。アルバムの音がどんどん厚くなって、アメリカのコンサート会場もどんどん広くなって、僕としてはギターを弾くことがプレッシャーになっていった。全てのメロディを忠実に弾くことは出来ないし、でもそれじゃ観客をがっかりさせることになるし、早く音的な進歩をあげなくてはと焦ってた。その解決方としてクレイグを少しの間入れたんだ。ところがバンドが解散した瞬間、ハゲタカたちが舞い降りてきた」

モリッシーとはお互いをかなり頼りにしてた?

「もちろんさ。そしてアンジーも二人の関係を常に見守っててくれて、そのお陰で正気を保つことが出来たんだ。みんな僕たちは狂ってたと思ってるだろう。違うよ。狂ってたのは周りの方さ。僕たちは信じられないぐらい素晴らしいユーモアのセンスで結ばれてたんだ。そこに分け入ってこられる人はいなかったよ」

彼らは最後のアルバムとなる”ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム”をリリースし、多くの人々を混乱させる。レコーディングとリリースの途中で解散が公になり、最初はジョニー・マー抜きのスミスになるともいわれていた。

”ストレンジウェイズ〜”の作業はどんな気持ちでやってたの?

「前向きだったんだ。だからこそ、もうこのバンドではやれないとも思ったんだ。アルバムなんて取り憑かれたようにならなきゃ作れないもんなんだよ。でもこの時の状況では、将来的に作りたい時にアルバムを作れるとは思えなかった。時間を掛ければ出来るのに、そういうやり方は許されてない。それじゃ次のアルバムなんてもう作れないよ。”ストレンジウェイズ”はかわいそうだよ。最後のアルバムだからってだけで、きっとケンカしながら作ったんだろうって思われてるから。本当は違うのに。モリッシーも僕も、これは自分達のベスト・アルバムだと思ってるんだよ。あとは一応”ザ・クイーン・イズ・デッド”もね。でも”ストレンジウェイズ”には”サムバディ・ラヴド・ミー”という最高の瞬間がある。モリッシーもこの曲がスミスの曲の中で一番好きだっていってた。僕は時々”ガールフレンド・イン・ア・コーマ”を店の中や車の中で聴くんだけど、あんなにいい音だったとは!”アンハッピー・バースディ”も好きだよ」

スミスの辿った経路について、「もしああだったら」と思う事は?

「ない。全ての結果に満足してるし、全てが自然の成り行きだったと思う。ただ、解散とその結果にまつわる二年間はバンドのせいではなくて、マスコミのせいだったと僕は信じてる。スミスは活動を停止した瞬間に無くなったんだから」

もうスミスのアルバムは出さないと心に誓える?

「その時はスミスという名前にはならないよ。誓ってもいい。銃を頭に当ててもいい。もしそんなことになったら、モリッシー&マーという名前になるだろうね。でもこれは完全に仮説であり推測であり感傷的でもあるね」


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