CROSSBEAT 90/JAN.

STRANGEWAYS, HERE HE COMES

Interviewer : Scot Isler / Translation : Takashi Shiraishi

(ジョニー・マー・ストーリー後編)

硬そうな髪質だな、マーよ。

スミスを脱退した後は、セッションを色々やりたいと思っていた。グループにいて責任を持たなければならない立場なんて、もう御免だったからね。他の3人に傷つけられるのも、他の3人を傷つけるのも、もう嫌だったんだ。そこにプロデューサーのスティーブ・リリーホワイトから、トーキング・ヘッズの「ネイキッド」でプレイしないか?という誘いが来た。デヴィッド・バーンのように名前の通った人と同じところにクレジットを入れてもらうのは、僕にとって気分のいいことだった。で、そのとき決めたんだ。これからはギター・プレイヤーとしての自分を確立して行こう、ソングライターとしての自分以上に、てね。色々セッションをやることは、その為の申し分無い方法だったというわけさ。もしバーンが特別な方法付けを与えてくれなかったら、”ネイキッド”の半分もプレイ出来なかっただろう。例えば”クール・ウォーター”で、僕はギブソン335の12弦ギターをオープン・チューニングでプレイした。キーは何だったか忘れてしまったけど、とにかくそうやって、スライド奏法で弾いたんだ。あと、このセミアコの音をマイクで拾って・・・こんなやり方、初めてだったよ。

プレスがスミスの分裂を報道した日だったか、そのぐらいの時期に、ポール・マッカートニーのマネージメント・オフィスから電話をもらった。ジャム・セッションの為のグループをいつか作るという話だ。「君も参加してみないか」というので、いいよ!と答えた。「じゃあ”TWENTY FLIGHT ROCK”や”LAWDY MISS CLAUDY”を知ってる?」---ポールが愛して止まない昔のロックン・ロール・ソング、彼のルーツだ。知ってる、と僕は言った。すると今度は”アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア”と”ゲット・バック”を知ってる?」---こんな風にして、電話の主は、次から次へと曲の名前を挙げていった。「両親に訊かなきゃならないね」と、僕は言ったよ。それで、両親から借りた何枚かのレコードでテープを作って、そういった昔の曲を聴いた。それは人生最高の日々でもあり、かつ悲惨な日々でもあったね。酷く神経質になって、本当に酷いプレイをしてしまった。緊張して体が思うように動かなかったんだ。でもポールの音楽に傾ける情熱ときたら、そりゃ凄いものだった。だからポールとプレイできたことは素晴らしい体験だったし、将来は孫にも話して聞かせたいぐらいだよ。ポールがいてヘンリー・スピネッティ---偉大なドラマーだ---がいて僕がいて、そしてもう一人ギター・プレイヤーがいて。7時間一緒にプレイした。不幸にもテープに録られてしまった!

曲を書いて、それをレコーディングしようと思っていたんだ。そうしたらプリテンダーズのマネージャーのポール・マクギネスから電話がかかってきてね、「プリテンダーズはU2の前座としてアメリカでコンサートをやることになってるんだけど、脱退したロビー・マッキントッシュの代りにステージに立ってみないか」と、彼はそう言う。この誘いは大いに興味ありだった。というのも、僕はプリテンダーズの初期のレコードが大好きだし、間違いなくジェームズ・ハニーマン・スコット(故人。元プリテンダーズのギタリスト)から大きな影響を受けているしね。

クリッシーとは、会ってすぐに意気投合した。何週間かのうちにプリテンダーズのレパートリー30曲を覚えるのは、そりゃ大変だったさ。でもコンサートは、うまくいったよ。彼女にはスミス脱退に関することやプレス対策の事なんかで、個人的なレヴェルで随分と世話にもなった。プリテンダーズというグループにいるという意識よりも、クリッシーとの友情関係の方が、ずっと重要だった。多くの意味でね。だから長居しなかったんだ。レコーディングに関して、僕は適切な人材ではないと思っていたし。単純な理由だよ。レコーディングしたのは、シングルとしてリリースされた”ウィンドウズ・オブ・ザ・ワールド”と”1969”の2曲だけ。両方ともスタジオで一発録りした。クリッシーは上手だからね、だから出来るんだよ。スタジオではプロデューサーのニック・ロウとの作業だったんだけど、ニックはテイクを聴いて、すぐにその良し悪しを判断できる、そんな人だった。

プリテンダーズから2人のメンバーが脱退したので、それを機会にスミス解散以前からずっと一緒にバンドを組みたかったジェームズ・エラーをメンバーとして入れた。ジェームズを入れて、何曲か一緒にやったよ。凄くうまくいったんで一発録りでレコーディングし、ヴォーカルも入れないでやった。自分の好きなアーティストを最後から順に挙げていくと、エルヴィス・プレスリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、バディ・ホリー、ジム・モリスン、ミック・ジャガー、ポール・マッカートニー、クリッシー・ハインドというわけで、クリッシーは最も重要な人として並べられる。彼女は本物だよ。今まで一緒にやったヴォーカリストの中で、最も自然で美しい声をしていると思う。クリッシーとは6曲ぐらい、一緒に曲を書いた。彼女は今、アルバムのレコーディングに入っているけど、それらの曲をどうするのか、僕は知らない。僕たちは楽しい時間を過ごしたけど、でも彼女は凄くシリアスなレコードを作ろうとしていたからね、それには僕は向いていないと思っていた。だからレコーディングには参加しなかったんだ。他にもやりたい事もあったし。その時はそれが何だか解らなかったけど、今でははっきりと解る。

僕の心はザ・ザにある。メンバーになれた事には、本当に誇りを感じているよ。もし今までのストーリーを全て知っているならそれがつじつまの合う事だってわかるだろう。だってマット(・ジョンソン)とは1982年の初め頃に出会って、すぐに仲良くなったんだから。彼はロンドンに住んでいたけど、2人の共通の友達っていうのがいてさ、マットはそいつに会うためにマンチェスターまでやって来た。それがきっかけ。彼が”ソウル・マイニング”用の曲を書いているとき、実際一緒にプレイもしたんだ。当時スミスを結成することを推めてくれたのも彼だった。彼からは見習うべき点が多かったし、何よりも僕は詩人としての才能を高く買っていた。マットは、その激しさと強迫観念に関する事では、モリッシーに最も近い事をやっていた人だと思う。モリッシーほど微妙じゃないけど、マットにとっては同じぐらい重要なものだったんだ。僕は、彼のレコードの事なら知り尽くしているし、厳しい批評家でもあった。うん、友達だからね。でもマットがグループをやろうにも、彼の昔の仲間たちはもういなかった。

僕がこれまでとは違ったサウンドをやりたがってるって事、マットは良くわかっていたみたいだ。リッケンバッカーの電源を入れてジャカジャカ弾くなんて事は、僕がもっともやりたくないことだった。スミスを脱退した大きな理由のひとつとして、ラジオをつけるとしょーもないインディ・ロックが聴こえてくる、あれが嫌だったんだ。そして不幸にも、僕はリッケンバッカー・サウンドで知られていた。勿論コピーされる事で得意にもなったけど、あんな風に上っ面だけコピーされたんじゃあ・・・。あんな連中と一緒くたに扱われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。いつも思っていたのは、「”あんなバンドはクズだ。ちっとも新しくないじゃないか”ぐらいの事を言う生意気な若いグループがなんでないんだ」ってことだ。若いバンドは僕たちの真似ばかりをしようとしてて、実際がっかりした。そりゃ恩知らずってもんだ。まあ、若者の理想主義と楽天主義を、僕は信じているけど。でも他の人間みたいになりたいなんて、凄く恥ずかしいことなんだ。だから思ったね。オーディエンスを魅了するような音楽を作れる人間が誰もいないのなら、僕がその第一人者になってやろうって。再びファットバックを聴き始めたのも、そんな理由からなんだ。あと、アイズレー・ブラザーズの”THAT LADY”や”LIVE IT UP”とか、大好きな70年代中頃の黒人音楽にのめりこんだ。ああいったサウンドは、本当にいいね。

スミスでイライラしていたのは、そういった事で不満がたまっていたからなんだ。でも良い面もあれば悪い面もあるから。スミスはいくつかの音楽的な戦略と、いくつかの明確な主義を持っていた。ただプレイしているだけのグループじゃなかったということでは、大いに満足していたんだ。だけど5年間もそういう事を続けていれば、自分自身が追い詰められてしまうという事にもなるのさ。エリート主義者になって、他からの影響は全く受けてはいけないという事になってしまうんだ。それはグループ内で他のメンバーが影響を受けたくないと言ってるだけじゃなく、スミスという一定の枠外から外れると、オーディエンスもそれを許さなくなってしまう。僕は人々にインパクトを与えて、そこからリアクションを得るのが大好きなんだ。モリッシーはいつもそうしていたけど、でも僕は期待されていることをやっていただけ。まったくイライラしたね。スミスのメンバーは、僕がやっている事に対して協力的だったし、また認めてくれてもいた。僕の頭の中に全てがあるという状況で、僕はそれらを実際にやらなければならなかった。次にやることに対して、凄くラディカルじゃなければならなかった。でも本当にやりたいことになると、ちょっと不安だったから、新しいグループを結成しなければという気持ちが、どんどん強くなっていった。だから、セッションが自分にとって明解なやり方だったというわけさ。

一年以上前、(ニュー・オーダーの)バーナード・サムナーが会いに来て、ソロ・アルバムを作るつもりだと言った。彼は言った、「ディスコ・レコードを作って、楽しくやりたくないかい」と。周りからなんだかんだ言われないで済むものだから、これはいいと思った。スミスでやった全ての事の重要性に対して、僕は酷く神経質になっていたから、殆ど何の意味も無い事をやってみたくもなっていたのさ。

僕のギター・プレイについての信条は、適切な場所にソロを入れるって事だ。余分なソロなんか入れたって、しょうがないだろ。その点スミスの方針と合致していたし、満足していた部分でもある。僕は自分の重要性を吹聴したり、才能をひけらかしたりする事に興味はない。曲と歌詞と、それをシンガーがどう歌うかに興味があるんだ。目立とうとするといっても、僕に出来るのはせいぜい派手なパンツをはいたり、ブロンドのパーマをかけるぐらいのものさ。でも僕はマンチェスター出身だから、そういう事は似合わないんだ。他人がやりたがらないような奇妙なやり方で、僕はやってゆきたい。ギタリストって、皆独自のサウンドを持とうとするものなのさ。僕はコード・チェンジやリフについて、色々なギター・プレイヤーから影響を受けてきたけど、真似だけは絶対にしない。

昔の人たちみたいになろうとも思わない。そういった人たちと比べられるのは光栄だけど、僕は1989年に生きる若者だから、関連性は全く無いと思う。僕自身のギター・プレイヤーとしての地位は確立したけど、今ハヤリの早弾きギタリストたちがやっている事とは相容れないものがあるね。僕から見れば随分と幼稚に見えるし、全体的にマッチョさを押し出しているような印象もある。本当に変だよ。ギター・プレイに関しては、もっと健康的な競い方をしたいものだ。だけど、昔の名手たちの態度も、時代遅れなものに感じられるな。あぶなっかしいったらありゃしないぜ!80年代、90年代に生きる35歳以下の人間には、全く関係の無い事だ。年長のギター・プレイヤーには何人か会った事があるんだけど−−−エリック・クラプトンじゃないよ---彼らの態度には非常にあぶなっかしいものを感じた。最初はわからなかったけど、彼らは僕の事を脅威と感じていたんだ。でもねえ、彼らの地位を脅かそうなんて気持ちは、僕にはこれっぽっちも無いんだよ。オールド・ロッカー達の態度には・・・実際ヘドが出る。哀れでもあるね。彼らは今何が起こっているかなんて、全く知らないんだから。僕は偉大なギタリストの系譜に名前を連ねたいとは思わない。もう、そんな世の中じゃないんだから。ジェフ・ベックと会った時は、凄く楽しかった。ベックの奏法、そしてひらめき・・・テクニックの面で、彼は現在いる白人ギタリストの最高峰に位置していると思う。でも曲が書けないからね。だからレコードも、それほど売れなかったんだ。いくら上手く弾けても、曲がなければ世界で最も偉大なギタリストにはなれないし、誰も耳を傾けてくれないだろう。

僕は若くして富と名声を手に入れた。うまくやったとは思うけど、それはそれで問題もあるのさ。実際あの年齢で色々な問題に対処しなければならないというのは、非常に難しい。それが名声であるのか、それともドラッグをやり過ぎたような状態なのかわからないけど、とても難しい事だった。20歳を過ぎると、ようやくあらゆる事に対処できるようになるし、満足感も得られる。何の心配も無かった10代前半の頃、僕は本当に若気なやつだった。でも名声を手に入れたら5年間は、記憶にある限りでは最も憂鬱な日々だった。皮肉だよね。あんな事は、もう二度とやりたくない。あの頃は、MR.ロックンロールとして生きていたけど、あのまま続けなくて本当に良かった。だってあんまり薄っぺらじゃないか。生まれ育ったマンチェスターで、貧乏だったけど、僕は幸せだった。いくらか稼ぎのある労働者階級の人たちは、貧乏な過去に戻ることに対して恐れを持っている。でもそんな不安は、僕にはない。特にスミスとともに、素晴らしいレコードを作ったという過去を持ってはいるけど、貧乏に戻ることはいつだって出来る。他の有名人と連絡を取り合う時だって、「お前はこんなにいろんな事をやってきたんだよ」って思えるだろうね。僕は本当に幸せだ。疑いたくなるぐらい幸せだよ。

---------- END ----------