CROSSBEAT 89/DEC.

STRANGEWAYS, HERE HE COMES

Interviewer : Scot Isler / Translation : Takashi Shiraishi

(ジョニー・マー・ストーリー前編)

激シブ(ラブXGOOD−5=キッス)ジョニー

いつもそばにはギターがあった、なんてちょっと陳腐かな。僕はマンチェスターに移り住んだ、アイルランドの大家族の出身だ。両親はカントリー・ミュージックが好きでね。両親がそうだから、子供である僕も、他の音楽に接する機会が無かった。カントリーが僕たちにとって唯一、共通のバックグラウンドだったというわけ。子供時代の最高の思い出も、父にエミルー・ハリスのアルバムを買ってもらった事というぐらいなんだ。以来僕が有名になるまで、父との関係はうまく行ってなかった。誓ってもいいけど、有名になるまで、僕は父の事が許せなかったね。でも父がプライドを持った人間だったのは嬉しかったし、たぶん父との葛藤が無ければ、僕自身、自分の存在を証明してやろうなんて気にはならなかったろう。

60年代の初め頃、僕の両親に、そのまた母親や姉妹たち・・・全部で5つの家族がマンチェスターに移って、お互い2ストリートぐらいしか離れていない近所で暮らすようになった。みんな本当に若くて、僕が生まれた時なんか、両親はまだ17だったんだぜ。楽器を手にするようになったのは、みんなパーティが好きで、いつもパーティばかりやっていて、その時楽器を与えられたからなんだ。最初はおもちゃのハーモニカで、次がプラスチック製のギター。毎年クリスマスになると、もっといいものをねだったものだよ。それから新聞配達のバイトをやって溜めた金で、エレクトリック・ギターを買った。3/4サイズのVOX社製ストラトキャスターだったな。最初に影響を受けたアーティストは、マーク・ボランだ。音楽こそ我が情熱って感じで、僕は真剣そのものだった。学校に入ってからはミュージシャンになるんだという気持ちがどんどん強くなって、始終一貫、それが僕の全てだった。

僕たちが住んでいた北マンチェスターは、とても貧しいところだ。だから、そこよりはまだましな南マンチェスターに引っ越した時は「やった」と思ったよ。音楽やってるやつとも知り合えたし。でも、そこでは自分の事を真面目に考えるのがとても難しくてね。通ってる学校が酷いところだったし、僕の生い立ちのせいという事もある。陰で”傲慢なブタ野郎”なんて呼ばれているのも知ってたけど、僕は徹底的反発したぜ。上級生になってからは、イヤリングをつけて学校に行ったり、髪を染めたりと、とにかく反発していた。

10-11歳の頃は、週に1枚のペースでシングル盤を買っていた。Tレックスとかスウィートとかゲイリー・グリッターとかあとロキシー・ミュージックやデヴィッド・ボウイなんかも。レコードを買うために一週間楽しみに待っていたようなものだよ。それで買ってくると何度も何度も聴いて、気に入ったフレーズをコピーしていた。ニューウェイブのギグには行けなかった。ガキすぎて中に入れてもらえなかったから。でも、何よりも、まずタイミングが悪すぎた。何しろ、その頃の僕はというと、ちゃんとしたチューニングで正確にプレイする事、そして曲を書く事に熱を入れ始めていたんだから。それに好んで聴くのも、みんな古い曲ばかりだったし。僕は時代を遡って、先人たちから学んでいる真っ最中だったんだ。中でもモータウンには、凄く入れ込んでいたね。プレイする事に本物の真剣さを持っていた人たち、そんな昔の人たちが、僕は大好きだったんだ。

正式な音楽教育を受けたことはないよ。14か15の頃は、まだ音楽は学校生活のおまけみたいなものだった。学校なんか、真面目に行ってなかったけどさ。初めてレコーディングスタジオに行ったのも、試験中の事だったぐらいだから。その時僕は、ニック・ロウのバンドと、彼のスタジオでリハーサルしていた。で、ジェイク・リヴィエラという、当時スティッフ・レコードの社長だった男のためにレコーディングしたんだけど、結局それはレコード化されなかった。彼は多分、どこかに、この酷いバンドのテープを持っているんだろうね。それにしても、ギター・プレイヤーに美術の得意な人が多いのは、一体何故なんだろう。当然僕もそうだったんだけど・・・多分ギター・プレイヤーってやつは皆ぐうたらで、知性のかけらもないからなんだと思う。

12歳になってからというもの、色んなグループを始めようとしたけど、けしかけるのはいつも僕だった。バンドを組んで、2-3ヶ月一緒に過ごして、週に1回リハーサルして・・・。だけど肝心の曲が無かった。プレイする曲がなければ、どうしようもないだろ。僕が作曲を学んだのは、必要に迫られての事だったんだ。それは楽しくもあり、同時に僕は真剣でもあったね。物凄く真剣だったよ、僕は。そういった点で共感できる友達なんて、なかなか居なかったし、だから1つのグループに落ち着くことも出来なかった。すべてが動き出したのは学校を出てからだね。ザ・スミスのコンビネーションは、完璧なものだった。モリッシーは本気でグループをやりたがっていたし、アンディ(・ローク:スミスのベーシスト)とは学校時代からの友達だったから。ニール・ヤングの”トゥ・ナイツ・ザ・ナイト”のバッヂをつけて歩いている僕に、”俺もニール・ヤング大好きだぜ”って話し掛けてきたのがアンディで、それ以来のつきあいというわけさ。アンディの影響で、アメリカのウェスト・コースト・ミュージックには相当のめりこんだ。ニール・ヤングの曲ならまかせてくれ、裏の裏まで知り尽くしている。

スミスでは、僕の書いた曲の入ったカセット・テープをモリッシーに渡し、それに彼が歌詞をつける、というやり方をしていた。いつも驚きの連続だったね。彼は全くオーソドックスじゃなくて、自分自身のスタイルというものを持っている。彼と仕事をするのは、だから凄く楽しかった。間違いなく、最高の作詞家のひとりに数えられると思う。機知、洞察力、個性、執念、献身的な態度・・・そのどれをとっても、誰も彼には敵わないだろう。”良い曲を書く”という事に関して、僕たちは大いなる自信を持っていた。まず第一にソングライターであるというのが、僕たちの考えていた事で、「俺達のロックを世界中に広めようぜ」なんてのは眼中に無かったね。パフォーマーであることよりも、まずソングライターである事が重要だったんだ。僕たちは自信があった。傲慢なぐらい自信があったぜ!だけどジョー・モス、僕たちの最初のマネージャーなんだけど、彼がいてくれなかったら、スミスというバンドも無かったかもしれない、とは思う。なにしろ彼は、僕たちの初期レコーディングに、沢山金を注ぎ込んでくれたんだから。でも彼は洋服屋をやっていたんだけど、あまりにも僕たちに入れ込んでしまっていたから、自分の商売の方が危なくなってきちゃった。僕たちが初めてのアメリカ行きのために飛行機に乗った日、82年の大晦日の日に、彼はマネージャーをやめてしまった。子供も出来たばかりだったし、バンドも大きくなりすぎたから、彼の手に余るようになったんだろう。ジョー・モスがやめてからというもの、バンド運営は災難の連続だった。モリッシーと僕でグループを切り盛りした事あったけど、音楽活動と両立させるのは本当にきつかった。最後の最後まで悩まされたね、この件に関しては。だって無理だよ!ビジネスと音楽に対して、同時に注意を払うなんて。とてもじゃないけど、僕には出来なかった。こんな状態が1年ぐらい前まで続いていたんだ。マネージメントの事では、僕の人生、災難と誤ちの連続だったね。

シングルのリリースに熱心だった僕たちは、アメリカのレコード会社にとって、かなり売りづらい存在だった。不満だったよ。何でもっとビッグになれないんだ、それはこの国のせいだってね。でも僕たちはシングルの良さを再認識させる事は出来ると思っていたから、この巨大な機械<アメリカ>という国に立ち向かっていったのさ。くだらない事をやる気は毛頭無かったから、ヴィデオだって作らなかった。最後までムカついたのは、ギグで大きな成功を収めても、それがレコード・セールスに結びつかなかった事だ。レコード・セールスを上げるようなプレイをしなかった事には誇りを感じているけど、結局それは僕たちのためには何にもならなかった。でもレコードが沢山売れていたら、解散も早まっていたかも知れないね。

職業上の理由と個人的な理由、その両方が原因で、僕はスミスを脱退した。職業上の理由としては、最後まで僕は働きすぎだったように思う。働きすぎて、燃え尽きてしまったんだ。他のメンバーの誰のせいでもない。僕の不満は全て、僕に原因があったんだから。”ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム”の後にもう一枚レコードを作ろうとしたら、それはこれまでにない、酷いものになっただろう。とにかく、僕は長い長い休息を必要としていた。また音楽的に、スミスとはまるで違う、新しいものをやってみたくもなっていたんだ。特にアイズレー・ブラザーズや、オハイオ・プレイヤーズ、ファットバック・バンドみたいな、そんなものが再び興味の対象になりつつあった。

我が人生で最も重要な出来事、アンジーと結婚したのは85年だった。最も結婚するずっと前、僕が15で彼女が14の頃から、いつも二人は一緒にいたんだけど。あー、アンジー以外の相手なんて、絶対考えられないよ。それなのにグループの活動と引き換えに僕はアンジーとの関係を台無しにしてしまっていた。僕の家はバンドの溜まり場と化していた。僕はバンドに全てを捧げ、アンジーはそんな僕を励ましてくれた。彼女とじゃなく、グループと結婚していたようなもんだよ。僕がバンドを脱退したのは、そんな理由もあったんだ。とにかく、もう一度自分の妻のことを、よく知ってみたかった。彼女はいつだってグループの次の、2番目の存在だったんだから。人が失望しようと、そんな事は知った事じゃない。僕たちが犠牲にならなきゃならない道理なんて、どこにもないんだから。有名になる前は本当に幸せだった。けど、有名になった途端、みじめになってしまって。凄くみじめだったんだぜ、おれは。だからバンドを抜けた。僕がどれほどみじめだったか、こんな事触れ回ると、グループに対する攻撃と受け取られてしまうかも知れないけど、いいかい、そうじゃなく、これはあくまでも僕自身の問題だったんだ。

それから、僕の事をロックンロール的過ぎる、批判した人たちに言いたい。ステージに上がると、良いギグをやらなければというプレッシャーが、物凄くかかってくるんだ。だから等身大の自分より、ちょっと大袈裟に振舞う必要があったのさ。実際にショウを観てくれた人なら、わかると思うけどね。僕は滅茶苦茶やったよ。でも大勢の聴衆の前でプレイするには、そうでもするしかなかった。酔っ払ってステージに上がって演奏をダメにしてしまったら自己嫌悪に陥っただろうけど、幸いギターは上手く弾けたから。確かに体には良くなかったよ、酒は。「イェー、俺達はツアーに出て、酒の問題を抱えてるのさ」なんてちょっとくだらないよね。それに些細な事だ。僕たちは酒より酷い問題を抱えていたんだから。アンディのやつ、ヘロインで身を滅ぼそうとしてやがった。そんなやつの姿を見るのが、僕はいやだね。アンディとはけんかばかりしていた。

要するにこういうことなんだ。僕がバンドを離れたのは、生きるか死ぬかの問題だった。だから自分のキャリアを上げる為のエゴ云々と言われた時は、全く頭にきたね。だってプリテンダーズやトーキング・ヘッズとプレイできるなんて、その時は知らなかったんだぜ。グループを離れてからやろうと思ったのは、マンチェスターに戻って、木の下にでも座って過ごそうってことだった。で、実際そうしてみたら、これが凄く楽しくてさ。あのままバンドにいたら、こんな風にはいかなかっただろう。グループをやめるというのは、本当にやなもんだよ。僕たちは1枚のレコードを完成させた。その時僕は思った。「解散するなら今がその時だ」と。もう1曲たりとも書くべきじゃないし、グループから離れて考え直すべきだと感じていたんだ。残りのメンバーはそう思ってなかったみたいだけど。だから僕は出て行き、彼らの幸運を祈ることにしたんだ。みんな信じないけど、自分のしでかした事に対して不安はあったし、自信だって全然無かった。グループにいるよりビッグになれるなんて、そんな事思ってなかったよ。僕はギター・プレイヤーで、ギターを弾いてればそれで満足なんだ。だからモリッシーや他のシンガーみたいに有名になりたいとも、レコードを沢山売る存在になりたいとも思わない。

スミスは手際よく仕事をするバンドだった。僕たちは何をやりたいか理解していたし曲もあったから、スタジオに入ってレコーディングして、あとは無事レコードが発売されるのを待っていれば、それで良かったのさ。他のバンドなら、こう簡単にはいかないだろう。だからブライアン・フェリーと仕事した時、僕はまだスミスのメンバーだったけど、何ら支障はなかったんだ。かえって他のメンバー達も励ましてくれたくらいでね。だけど、あまりにもタイミングが悪かった。というのも、ブライアンの”ベイト・ノワール”が出たとき、僕は既にバンドを脱退してたから。だから脱退に関してはある事無い事、もうボロクソに言われた。あんまり叩きやがったから、逆にブライアン・フェリーのレコードをプロモートしてやったぜ。まるで自分のオーディエンスをあざ笑うようにね。もし今後同じようなポジションに置かれるような事があったら、またやってやるさ。とにかくブライアン・フェリーの仕事のタイミングの悪さといったら、僕のキャリアの中では一番だろう。

---------- END ---------- 後編に行く ----------