CROSSBEAT 1988/NOV.

BAM MAGAZINE TEXT BY CARY DARLING

翻訳/丸山京子

かぶりものか、天使の輪か。

現在ソロアルバム制作中とも、あるいはまたモリッシーに再度接近しているとも伝えられるジョニー・マーだが、彼自身がインタビューに答える事は滅多にない。実質的にはザ・スミスのサウンド面の主導権を握っていたマーだが、彼の音楽的ルーツや取り組み方に関する解釈は、いくつかの発言の断片を寄せ集めることで、なんとか成されてきたというのが実情だ。今回訳出ししたインタビューは、87年にザ・スミス解散直前にアメリカ西海岸の音楽誌が行なったものだが、マーのミュージシャン/ギタリストの総体が浮かび上がっており、なかなか貴重なものとなっている。いかにマーの音楽がアメリカン・サウンドに負ったものか、また極端にイギリス的なモリッシーのキャラクターとマーの組み合わせがどれほどユニークだったかを知らされる内容といえるだろう。

ザ・スミス。イギリスの偶像破壊主義者4人組。自国で大スターの座を獲得する一方、大西洋を挟んだアメリカでもその人気は上昇。その鍵を握っていたのは、神秘のヴェールに包まれた内気な男、ステファン・モリッシー。きゃしゃで物憂げなこのリード・シンガーが醸す、優美なまでに憂いを秘めた歌声、英国的な歌詞、好戦的なヴェジタリアニズム、そして禁欲主義。これらがスミスの作り上げてきたイメージのあらましである。が、見過されがちながら忘れてはならない人物がここに居る。ジョニー・マー、23歳、ギタリスト兼ソングライター。ポスト・パンク時代のギター・ヒーローに祭り上げられた彼だが、そのスタイル----「ザ・スミス」「ハットフル・オブ・ホロー」「ミート・イズ・マーダー」「クイーン・イズ・デッド」「ラウダー・ザン・ボムズ」そしてまもなく発売になる「ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム」等に見られる、エレクトリックな高揚と溢れるほどのアコースティックが目まぐるしいまでに寄せ集められたスタイルからは、今なおイギリスのポップ・シーンに色濃く影を落とすパンクの産物、ミニマリスト的道徳性との共通点は見逃せない。

「どちらかと言うと、トラディショナルな黒人音楽の要素の方が強いと思う」

ロサンゼルスを訪れた際、マーが語った自らのスタイルである。

「イギリス人の多くは、ボ・ディドリーを直接知らないんだ。俺が夢中になったのも、60年代の白人若手ギタリストを通じてさ。例えばキース・リチャーズ。彼のお陰でジョン・リー・フッカーとかに目を向けさせられた。ギター・センターに行っても変な感じだったよ。誰もがエディ・ヴァン・ヘイレンに夢中なのに俺だけ一人、好みが違うんだもの。俺はメロディアスなものが好きなのさ。マーティン・カーシーとかフォーク系のギタリストから影響されたからね」

ザ・スミスと言うと、イギリスの新たな世代を代表するバンドのひとつに見なされる事が多い。しかしマー自身は、REMのピーター・バックの様なアメリカ人や、マーク・ノップラー、リチャード・トンプソンといった中堅イギリス人アーティストに親近感を覚えると言う。

「ノップラーの場合は、何て言うのか・・・物凄くセンスが良くて、小奇麗にまとめて、丁寧にお辞儀して終り・・・そんな感じだろ?俺はもう少しスリルが欲しいね。P・バックに関しては、影響を受けているものが俺と似てるような気がする。まず頭に浮かぶのはバーズだ。リッケンバッカーのピッキング奏法とか、曲作りとか。ヤツの書く曲は大抵、3分程度だ。それって俺も同じだけど、特定の時代の曲作りの影響なのさ」

パンクの嵐が吹き荒れる頃、マンチェスターに住むマー少年は15歳。多くの友人、クラスメイトとは違い、3つのコード進行のホワイト・ノイズには興味を覚えなかったという。

「タイミングが悪かったんだよ。パンクが爆発してた頃、俺は丁度、曲作りに夢中になり始めてた。つまり、モータウンのホーランド=ドジャーズ=ホーランドやゴフィン&キング、リーバー&ストーラー等さ。学校の友達は皆、ジャムを観に出掛けてたけど、俺はジャムなんてクソ面白くもねェと思ってた。クラッシュもね。今にしてみれば彼らの功績は認められる。でも当時は---------俺には実にタイミングの悪い訪れだった。あの頃、シュープリームズを聴くなんて、全然クールじゃなかった。全くと言っていい位ね」「パンクを通じて色々な音楽が生まれた。特にギタリストにとって、良い影響を与えた音楽がね。俺にとってのパンクからの最大の影響はトム・ヴァーレインだろう。それは違う形となって俺の音楽に現れたけど、ヴァーレインとパティ・スミス、この二つが俺をパンクの、若しくはアメリカ流に言うならニュー・ウェイヴの虜にしたのさ。アメリカの音楽が好きだったね。パティ・スミス・グループとモータウン------。俺がやりたかったのは、3分間のモータウン・ソングに8小節のブレイク、それをリバーブを効かせたフェンダーツインで演奏したかったというだけの事なのさ」

それ以前からも、マーにとってアメリカの音楽スタイルは心惹かれるものだった。アイルランドからの移民の家庭に生まれたマーの近所には、アイルランド海をギターと共に渡って来た者も多かった。

「それこそ、週末になるといつもパーティだった。伯父がギターを、長老がアコーディオンやらハーモニカやらを・・・という様にね。そんな家庭環境から音楽が好きになったにも関わらず、家族はさほど協力的ではなかったよ。マジにのめり込むのを快く思ってなかったんだろう。でも好きになるなと言われても無理な話さ。いつだってゴロゴロしていて伝統の一部だったんだからね」「まさにカウボーイ達なのさ。カントリー・ミュージックを心から愛していたよ。とは言っても、演奏してたのはヒドいカントリーだった」

そう言って苦笑いした。実際、昔も今も通じて、彼の興味をそそるイギリスの音楽は殆ど無いに等しかった。

「レコードを買い始めたのが74年ごろ。当時、アートと呼べるものでシングルを買う気になれたのは、ロキシー・ミュージック、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボランくらいでさ。ギターという意味では、それほど熱い音楽じゃなかったけど、ベイ・シティ・ローラーズよりは遥かに魅力があったと思うよ。11歳のガキにリトル・フィートのアルバムを好きになれ、と望むのはちょっと無理があるってもんさ」

そんな彼の音楽志向が、同じマンチェスター出身の風変わり者、ステファン・モリッシーとの出会いのきっかけになった。彼もまた、バンドのメンバーを探していたが、同じ感性の持ち主に出会えずにいたのだ。

「ヤツの住所は知ってたけど、まだそこに住んでいるのか、果たしてバンドをやる気があるのか無いのか、何も解らなかった。ドアをノックして、一撃を食らわされる前に、俺は俺の告げたい内容を告げた。するとアイツはどんな音楽を聴いてる?と訊ねたよ。それで俺は、マーヴェレッツ、シャングリラズ、リーバー&ストーラー、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キング・・・・と80-81年当時としては軽蔑視されがちな名前を挙げた。するとアイツもレコード棚からマーヴェレッツやレスリー・ゴーアを引っ張り出してきたんだからたまげたよ」

ビデオで見せる母獣的虚飾から、他のバンドに対する痛烈なコキおろしに至るまで、モリッシーがメディアの注目を一身に集めていた事は最初から明らかだった。しかしそのモリッシーが鋭い歌詞を書いて乗せたのは、マーの作る曲にだった。反皇室党派の”クイーン・イズ・デッド”、ベジタリアン支持の”ミート・イズ・マーダー”、英国が抱える苦悶の叫びである”ヘヴン・ノウズ・アイム・ミゼラブル・ナウ””プリーズ、プリーズ、プリーズ、レット・ミー・ゲット・ホワット・アイ・ウォント”、または純朴な魅力溢れる”バック・トゥ・ジ・オールド・ハウス”など。

「普通は俺が書いた曲をカセット・テープに落とす。多少のオーバーダブを重ねるかな。そしてそれをモリッシーに渡すのさ。ギターで弾いたものを、大型のラジカセや小型のマルチ・トラック・テープレコーダーに録り貯めておくんだ。時には8トラックで録るよ。でもちゃんとしたバッキング・トラックなんて作った事ない。バンドによってはバッキング・トラックを作ってその上に歌詞を当てはめて行くけど、俺達は常にアコースティック・ギターと歌声、この二つが聞こえない音楽なんて何の意味も無い、という信念を失った事が無いんだ」

モリッシーの平板ながら、不思議と陽気なバリトンに合わせて、マーのギター・チューニングもユニークだ。

「Fシャープでチューニングするのさ。普通より2フレット上でね。よく(ベーシストの)アンディ(ルーク)はEをDに変えてたよ。俺のチューニングは色々。その方が良いと思うんだ。”こんなコード進行は初めてだ。凄いぞ”と思えるのも、そこから曲が書けるのも、チューニングのおかげ。いつも普通のチューニングじゃ何も生まれないさ。オープンE、オープンD、オープンG、オープンA、ハイストリング・オクターブ・チューニング、ドミナント・チューニングなど何でもね。凝り始めたのはデヴィッド・クロスビーを聴いてから。彼は全部12弦のドミナント・チューニングを用いてたけど、素晴らしいよ。取り入れたのも彼が初めて。当然、あんなプレイが出来たのも彼が初めてだったのさ」

マーの口からデヴィッド・クロスビーの名前が挙がるとは驚きだ。

「天才的ギタリストだよ。あまりそれを口にされずにいる訳もよーく解るけどね」と笑った。

モリッシーの声は聴くものによって、聴き辛い場合もあるが、マーは反論する。実際音域はかなり広く、ヴォーカル。テクニックも他に類を見ないという。

「パンクにイライラさせられるもう一つの理由がそれなんだ。音楽の学士号を持ってなくても音楽は出来る-----と多くの人に門扉を開いた事は認めるよ。でも同時に歌えもしないシンガーに道を開いてしまったのも事実さ。そういう奴等がイギリスで持てはやされてるのには全くイライラするね。仲間を集めてグループを作り、そのうちの一人が”俺が歌うよ”という。そんな姿勢は気に入らないね。だってモリッシーは昔から練習を重ねて、歌い続けて来た男だから。自分は一流のクルーナーだと、ロックンロール・シンガーだと誇りを持っているんだよ」

マーにとってのギター・ヒーローがそうであった様に、彼自身もベーシックなギター・コレクションを誇る。フェンダー、ギブソン、リッケンバッカーが中心だ。

「新しいフェンダーを探しているところ。昔のと同じ位に良いヤツをね。ストラトキャスターが大好きなんだ。ギターにも使い方があって、リッケンバッカーは必ずどの曲にも、ある程度まで使ってしまう。それを変えようとした事もあるけど、何故か”あ、ここでリッケンバッカーを使いたい”という箇所が必ずあるものなのさ」

現在所有しているのは60年型ギブソン・レスポール、63年と65年型フェンダー・ストラトキャスター、リッケンバッカー、フェンダー12弦など。ザ・スミスのサウンドはナチュラル志向で知られているが、コルグ300や1000といったディレイ・マシーンも使用しているという。

「普通はアンプから出る音を、そのまま拾ってるのさ。俺のアンプは結構、面白い音を出すから。ベースマンと古いフェンダー・ツィード、12弦の時はローランドJC120、そしてブギーマーク3を使用している」

またザ・スミスはアンチ・シンセ派としても知られているようだが、この事実をマーは否定する。現にインストゥルメンタル・ナンバー”ドレイズ・トレイン”ではARP(「それこそ先史時代の遺物だけど」と彼は笑う)が使用されているし、ギター・シンセも嫌いではないという。

「スティーブ・モーズ(米のジャズ/ロックギタリスト、現カンサス)なんかに使わせたら面白いものが生まれるだろうね。俺も夢中になるタイプだと思うけど、ギター・シンセの前にトラディショナルな奏法をまだまだ追求しないと。探求すべき点はいくらでもあるからね」

ソロで一度もプレイした事の無いアーティストとして歴史に名を残したいと、マーは常々言っている。ギター・ヒーローにはなりたくないのだと言う。しかし去年、セカンド・ギタリスト(クレイグ・ギャノン)を伴って、インストゥルメンタル中心のツアーを行なった。これに関してマーは、一人になってソロ活動をするつもりは毛頭無かったと説明する。ギャノンは元々、ヘロイン中毒に悩まされていたオリジナル・ベーシスト、ルークに替わって採用された。治療の末、ルークはバンドに復帰。しかしその後もギャノンはバンドに残り、リズム・ギターにスイッチしたのだった。

「自分以外のギタリストとこのグループでプレイする機会があるとしたら、今が時だ、と思ったのさ。ギタリストが二人、というのは初めてだった。それまでは常にギタリストは俺一人で良いと思っていたからね。でもクレイグを加えたギグの後は、一緒にジャム・セッションも悪くないと思ったよ。新しい曲作りの道が開けそうな予感がしたんだ。でも実際は実現しなかった。俺達は友達ではあったけど、それほど近い存在にはなれなかったんだ。奴をスタジオに呼んで弾かせた部分は、俺のプレイと良く似ていた。だからライブではうまく行ったんだ。つまり俺がやらずに済ましてしまう部分を、クレイグが全部面倒見てくれるという訳さ。おかげで俺は怠け者になってたよ。事実、少し自己満足に陥ってたかな。プロフェッショナルな理由から、クレイグは去ったんだ」

ルークとギャノンを巻き込んだ心理ドラマが展開される一方で、ザ・スミスはバンド活動に終止符を打つべく時期に差し掛かっているかのように見えた。マーはアルコール中毒に、モリッシーはヨーロッパのショウで肉体的暴行を受け、シングル曲”パニック”はダンス・ミュージックを攻撃するその内容から人種差別だと批難され、彼らを巻き込んでアメリカとイギリスのレコード会社のいさかいが起こった。

「今から思えば、よく解散せずに乗り切ったものだよ」

彼自身のアルコール中毒に関してはこう回想する。

「とにかく4週間、完璧に酒を絶った。発狂寸前になったけどね。でも特別な治療とかは嫌だったから、敢えてそうした。自分の愚かさを何より自分が体感する必要があったのさ。同情なんか必要ない。でも辛かったよ。人間って、自分を正当化して飲む理由はいくらでも思いつくものだからね。仕事を止めたのは飲みたく無かったから。というのも、飲むととことん飲んでしまったからね。数週間は一切、何もかも止めて、曲作りさえしなかった。今まで初めてだよそんなのって」

モリッシーが暴行を受けたのはニューポートでのショウの後だった。狂信的なファンによって観客の中に引きずり下ろされた彼は「酷い怪我を負い、ステージを続けられなかった」らしい。マーによれば、事件が起きたのは、ショウ終了10分前の事だったという。

「そころが翌日のタブロイド”ザ・サン”誌には、俺達が1曲目の”クイーン・イズ・デッド”を演奏し出した途端---------というのも、これが反皇室的なナンバーなので--------皇室支持派がモリッシーを襲ったと書かれた。次のギグの会場では”クイーン・イズ・デッド”の旗をモリッシーがかざすが早いか、物が投げつけられた。硬貨か何かだったんだろう。モリッシーは血だらけになってステージを去っていったよ」「ファンは俺達のノン・ロックンロール論理を理解してくれてるはずだけに、心が痛んだね。ギグでは会場が一体となって、暴力とは無縁であるべきなのに。ザ・スミスのギグと暴動-------あまりにもかけ離れてるよ。騒ぎが収まらない時は演奏を中断した。ランDMCのギグにしたって同じ。一度何かが起こるとオーバーに書き立てられ、その次のギグには興味本位のアホどもがわんさと押しかける。情けない話さ」

シングル曲”パニック”を取り巻く人種差別の論議、これもまたマーの神経を苛立たせるものらしい。

「ディスコを批判している訳ではない。ただ、音楽を通じて人生について何かを知りたいと思う者にとって、(ディスコは)何の意味も持たないという事さ。失業手当を受けているイギリスの若者がワムの曲を聴いて、自分の姿を投影出来ると思うかい?音楽を通じて何を語るのか、真面目であるべきだ。ユーモラスなものにするにしたって、少なくともオーディエンスが身近に思えるユーモアでなけりゃ」「ラジオでチェルノブイリのニュースに続いて”アイム・ユア・マン”が流れたのを耳にして、考えさせられたのが事の発端だ。何も”死の雨が降る”なんて曲を歌え・・・・とは言わないけど、イギリスのメイン・ストリームの音楽は全く無意味と呼べるほど軽薄そのものだね」

ザ・スミスがインディのラフ・トレードを離れて、経済的に裕福なEMIの青い芝生を選んだ事も、恰好の攻撃材料になった。

「簡単な事さ。契約を結び、俺達は成果をあげた。その結果、次のステップに移る必要があった。それだけさ。横柄な言い方かも知れないけど、レーベルがどれだけグループにおんぶに抱っこか・・・・・そこらへんの複雑さを理解して貰えるなら、考え方も変わると思う。俺達はグループを大きくしていく為に先に進まなきゃならなかったんだ。レーベルが財政的に苦しくなると、俺達の責任みたいに思われて、他のグループは”それなら自分たちの方に金を費やしてくれればいいのに”と悔やむ。そんな状況の中にいたくなかったんだよ」

マーは当然の事といった口調だ。何よりも、サイアーに100%魅力を感じていた訳ではないとマーは言う。レーベルのヘッド、シーモア・スタインは彼らの”ハウ・スーン・イズ・ナウ”(「ミート・イズ・マーダー」のアメリカ盤に収録)を「80年代の”天国への階段”だ」と手放しで絶賛したようだが。

「1-2名のごく身近な関係者を除けば、俺達とレーベルには何の関係もなかった。ウンザリさせられてたんだよ。ユニバーサル・アンフィ・シアターでの2晩のコンサートの後、不満は頂点に達した。もう少しレコードが売れる事を期待してたからね」

アメリカでも熱心なファンの数をかなり誇っているザ・スミスだが、イギリスのそれとは比べものにならない。母国ではリリースした曲は全て、あっという間にトップ10入りしている。

「ちょっと意味合いは違うけど、アメリカでのビースティ・ボーイズの人気に近いね。石頭たちの逆襲!なのさ」

多くの英国人の心を捉えているザ・スミスのスクールボーイ的人気をマーはこう分析し、クスッと笑った。

「ザ・スミスは石頭の連中の代りに旗を掲げたんだ。モリッシーと俺が体で理解しているロックンロールの伝統を踏まえて、その重要性を失わず-------つまり危険性、独自のジョークのセンス、スタイルを持ったグループ--------そこから新しい何かを作り出した。ロックンロール・バンドにとっての基本はそれだと俺は考えてるよ」「今年まで”ロックンロール”という言葉さえ使いたくなかった。MTVの悪いイメージしかなくてね。でも悪いのはMTV側の姿勢だけで、ロックンロール自体は素晴らしいものなんだ。古いロックンロールの倫理はもう通じないかもしれないけど、エルヴィス・プレスリーは昔も今も変わらず偉大だ。いつまでも若々しく、主張を持って、横柄で、セクシー。ホテルの部屋を壊すとか、ドラッグに溺れるとか、自分をダメにするとかいうのとは違うんだよ」

彼らの英国的気質はアメリカ人を尻込みさせるものかもしれない。しかしマーはグループのサウンドを変える気はないと言う。

「俺のスタイルは、俺が聴いて育ったアメリカのグループ同様、とてもアメリカ的だ。イギリス音楽がロックンロールの中で果たすユニークな役割も理解出来るさ。でも基本的に合わないね。ロックンロールはイギリス訛りで歌っちゃいけないんだ。キンクスの失敗はそこにあった。でも彼らの中にある何かのおかげで、彼らはいつも特別でユニークな存在だったんだ。その何かを俺達も失いたくないんだよ」

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